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「〔法話〕涅槃会に思う」

 釈尊が涅槃に入られたのは今から二千四百年前のことです。二月十五日がご命日で、涅槃会と呼び、私たち仏教徒は厳粛な気持ちでその日を迎えます。お涅槃の図を拝見いたしますとたくさんのお弟子様方、菩薩様方を初め、動物から小さな虫に至るまで嘆き悲しんでおります。釈尊のお徳の高さと慈悲の深さが生きとし生けるものすべてのものに及んだ様子がよくわかります。この釈尊のご命日を迎えて私たちはどういうご供養ができるでしょうか。
 釈尊は、人間が幸せに生きていくためにたくさんの法をお説き下さいました。しかし私たちはその仏法を何一つ知らないで、さまざまな悲劇を引き起こしているのではないでしょうか。
 現在日本は世界一のお金持ちの国、衣食住、共に非常に豊かな時代です。しかしその反面、現在ほど、心の貧しい時代はないと思うのです。お金が欲しい、権力が欲しいという物欲は止まるところを知りません。また欲しい物を手に入れるためには手段を選ばない。そして、この世のこととは思えないような、悲しい事件、愚かな事件が毎日のように報じられています。人間が心を失ってしまったならば、これほど恐ろしい生物はいないでしょう。この美しい日本を、世界を、更には地球を破壊してしまうのもそう遠くはないと思えるほどの勢いです。なんとしても人間が人間らしい本物の心を取り戻さねばなりません。
 そこで今こそ、釈尊のお説き下さった法をよりどころとし、その法を活用していかなければと切に思います。
 釈尊が涅槃に入られる時にお説きになったお経(涅槃経)に、

  信心は法を聞くを因となし、
  法を聞くは信心を因となす。

という一節があります。法を聞くことが信心に目覚める原因となり、また信心に目覚めることが法を求める原因となる、ということです。私たちは、仏法を聞き、信心に目覚めていくことが大切ではないでしょうか。信心に目覚めるには、まず仏法を聞くことから始まるのです。
 私の寺は、閑栖(かんせい)和尚(先住職)が花園会婦人部を結成して三十年余りになり、毎月一度ご婦人方が寺に集まり法話を聞いております。その婦人会に結成以来一度も欠席することなく仏法を聞き、また寺の内外の掃除など、いろいろと手伝いをして下さるおばさんがいます。戦争未亡人ということで、若いころからあらゆる苦労を乗り越えてきたおばさんです。そのおばさんが、どんなことでも誠心誠意で寺に尽くしてくれます。「よくこんなことまで。」と思うくらい、私の気のつかない所まで汚れる仕事から、男顔負けの力仕事まで全く苦にせずに喜んで働いて下さいます。
 ある日のこと、「おばちゃん、いつも有難う。おばちゃんのおかげで本当に助かるよ。」と感謝の言葉をかけるとおばちゃんは、こう答えたのです。
「いいえ、これはみんな閑栖和尚さんのおかげです。三十年間たくさんの仏法を聞かせていただきました。私が今日あるのは閑栖和尚さんのおかげです。仏法のおかげです。」
と反対にお礼を言われたのです。私は幼い時から、このおばさんを見て育ってきましたが、この言葉を聞いた時、正に信心に目覚めた人の素晴らしさを感じました。このおばさんは三十年間仏法を聞き、信じ、実行してきたんだろうと思います。それが今、信心となって表れているのではないでしょうか。法を聞き、その教えを信じ、日常生活の中に生かして実行していく、それが本当の信心となるのです。
 おばさんも現在は二人のお孫さんがいて、忙しくなり、以前のようにお寺に出入りする日も少なくなってきましたが、それでも、何事かという時には一人の孫の手を引き、一人をおぶって寺にかけつけて下さいます。孫をあやしている時のおばさんを見ていると、何ともうれしそうで、私まで「ニコッ」としてしまいそうです。こんなおばあちゃんのいる家庭に育つ子供は、きっと心豊かな人間に成長していくことだろうと信じます。
 私たちは、仏教徒とは名ばかりで仏法の何ほども知らない人たちがあまりにも多いのではないでしょうか。それは本当に勿体ないことです。二月十五日の涅槃会を迎えるに当たり、私たちは、生涯をかけて仏法を学ばせていただかなければと思います。それが仏教徒としての使命です。私たち人間が幸せに生きるために、たくさんの仏法をお説き下さった釈尊、その釈尊のご恩に報いるためにも、仏前で焼香し読経するだけではなく、仏法を学び、仏法を信じ、仏法を実践する毎日を心がけて生きていくことこそ、涅槃会の最大のご供養となるのです。

辻 良哲(長崎・是心寺)