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「〔法話〕涅槃会―おのれのよるべ―

 二月十五日は、お釈迦さまがお亡くなりになられた日「涅槃会」です。涅槃=ニルバーナとは「吹き消す」という意です。煩悩・妄想がなくなったということです。
 お釈迦さまの最後のご説法は「汝自(みずか)らを灯(ともしび)とし、汝自(みずか)らをよりどころとせよ。法を灯とし、法をよりどころとせよ」(これからは自分自身を灯・よりどころとして生きなさい。私がこれまで説いた法(おしえ)をよりどころとして生きなさい)です。ここのところを法句経では

  おのれこそ おのれのよるべ
  おのれを措(お)きて 誰によるべぞ
  よく調(ととの)えし おのれにこそ
  まこと得難(えがた)き よるべをぞ得ん
              (法句経一六〇)

と、示されています「自分自身をよりどころとして生きなさい」と。そのよりどころとする自分は、我見・我欲の自分ではなく、よく心が調えられた自分でなければなりません。
 仏の十号の一つに「調御丈夫(ちょうぎょじょうぶ)」(心を調えられた人)とあります。この心を調える方法として、わが宗門では「坐禅」があります。
 当山では、毎週日曜日の朝「坐禅会」を行っています。数年前より車で片道一時間かかる所からW外科医が参加しています。外科医ですから手術をします。普通の手術はよいのですが困るのは「癌」です。告知できればよいのですが、癌の場合ほとんど本人には知らせません。自分の言葉や動作から病名が知れるのでは?と、いつも心が落ち着きません。「坐禅をすると心が調う」ということを耳にし、坐禅を始めるようになりました。
 その外科医が「最近やっと患者さんの話が聞けるようになりました」と言っています。心が調ってきたのです。「心を調えて手術に向い、また患者の身になって相談にものれるようになってきました」とも言っています。
 お釈迦さまは「心が調った自分を、自分のよりどころとして生きなさい」と、最後の説法で示されました。

森 哲外(大分・福正寺住職)

「〔法話〕涅槃会に思う」

 釈尊が涅槃に入られたのは今から二千四百年前のことです。二月十五日がご命日で、涅槃会と呼び、私たち仏教徒は厳粛な気持ちでその日を迎えます。お涅槃の図を拝見いたしますとたくさんのお弟子様方、菩薩様方を初め、動物から小さな虫に至るまで嘆き悲しんでおります。釈尊のお徳の高さと慈悲の深さが生きとし生けるものすべてのものに及んだ様子がよくわかります。この釈尊のご命日を迎えて私たちはどういうご供養ができるでしょうか。
 釈尊は、人間が幸せに生きていくためにたくさんの法をお説き下さいました。しかし私たちはその仏法を何一つ知らないで、さまざまな悲劇を引き起こしているのではないでしょうか。
 現在日本は世界一のお金持ちの国、衣食住、共に非常に豊かな時代です。しかしその反面、現在ほど、心の貧しい時代はないと思うのです。お金が欲しい、権力が欲しいという物欲は止まるところを知りません。また欲しい物を手に入れるためには手段を選ばない。そして、この世のこととは思えないような、悲しい事件、愚かな事件が毎日のように報じられています。人間が心を失ってしまったならば、これほど恐ろしい生物はいないでしょう。この美しい日本を、世界を、更には地球を破壊してしまうのもそう遠くはないと思えるほどの勢いです。なんとしても人間が人間らしい本物の心を取り戻さねばなりません。
 そこで今こそ、釈尊のお説き下さった法をよりどころとし、その法を活用していかなければと切に思います。
 釈尊が涅槃に入られる時にお説きになったお経(涅槃経)に、

  信心は法を聞くを因となし、
  法を聞くは信心を因となす。

という一節があります。法を聞くことが信心に目覚める原因となり、また信心に目覚めることが法を求める原因となる、ということです。私たちは、仏法を聞き、信心に目覚めていくことが大切ではないでしょうか。信心に目覚めるには、まず仏法を聞くことから始まるのです。
 私の寺は、閑栖(かんせい)和尚(先住職)が花園会婦人部を結成して三十年余りになり、毎月一度ご婦人方が寺に集まり法話を聞いております。その婦人会に結成以来一度も欠席することなく仏法を聞き、また寺の内外の掃除など、いろいろと手伝いをして下さるおばさんがいます。戦争未亡人ということで、若いころからあらゆる苦労を乗り越えてきたおばさんです。そのおばさんが、どんなことでも誠心誠意で寺に尽くしてくれます。「よくこんなことまで。」と思うくらい、私の気のつかない所まで汚れる仕事から、男顔負けの力仕事まで全く苦にせずに喜んで働いて下さいます。
 ある日のこと、「おばちゃん、いつも有難う。おばちゃんのおかげで本当に助かるよ。」と感謝の言葉をかけるとおばちゃんは、こう答えたのです。
「いいえ、これはみんな閑栖和尚さんのおかげです。三十年間たくさんの仏法を聞かせていただきました。私が今日あるのは閑栖和尚さんのおかげです。仏法のおかげです。」
と反対にお礼を言われたのです。私は幼い時から、このおばさんを見て育ってきましたが、この言葉を聞いた時、正に信心に目覚めた人の素晴らしさを感じました。このおばさんは三十年間仏法を聞き、信じ、実行してきたんだろうと思います。それが今、信心となって表れているのではないでしょうか。法を聞き、その教えを信じ、日常生活の中に生かして実行していく、それが本当の信心となるのです。
 おばさんも現在は二人のお孫さんがいて、忙しくなり、以前のようにお寺に出入りする日も少なくなってきましたが、それでも、何事かという時には一人の孫の手を引き、一人をおぶって寺にかけつけて下さいます。孫をあやしている時のおばさんを見ていると、何ともうれしそうで、私まで「ニコッ」としてしまいそうです。こんなおばあちゃんのいる家庭に育つ子供は、きっと心豊かな人間に成長していくことだろうと信じます。
 私たちは、仏教徒とは名ばかりで仏法の何ほども知らない人たちがあまりにも多いのではないでしょうか。それは本当に勿体ないことです。二月十五日の涅槃会を迎えるに当たり、私たちは、生涯をかけて仏法を学ばせていただかなければと思います。それが仏教徒としての使命です。私たち人間が幸せに生きるために、たくさんの仏法をお説き下さった釈尊、その釈尊のご恩に報いるためにも、仏前で焼香し読経するだけではなく、仏法を学び、仏法を信じ、仏法を実践する毎日を心がけて生きていくことこそ、涅槃会の最大のご供養となるのです。

辻 良哲(長崎・是心寺)

「〔法話〕涅槃会・西行・明恵」

 二月はお涅槃の月、やはり西行の歌が思い出される。

  ねがはくは花のしたにて春死なむ
       そのきさらぎの望月(もちづき)のころ

 きさらぎと言っても旧暦のことだから、太陽暦ならばだいたい三月末頃に当る。釈尊のお涅槃はその日、望月は満月、二月十五日ということである。

  花ちらで月はくもらぬ世なりせば
       物を思はぬわが身ならまし

 と桜に心をときめかす歌人はまた、釈尊を恋慕した出家者でもあった。願いのごとく建久元年(一一九〇)二月十六日、弘川寺という、花の美しい寺で七十三歳の生涯を閉じた。
 釈尊を恋慕したということになれば栂尾(とがのお)の明恵上人ほどにその志を抱いた方はなかったであろう。自らを釈尊遺愛の子と称し、実行はできなかったものの、しばしば天竺への旅を企てたりされた。

  遺跡(ゆいせき)を洗へる水も入海(いるうみ)の
       石と思へばなつかしき哉

と詠まれて紀州の鷹島(たかしま)の渚の小石を生涯、身から離さず愛撫されたという。
 西行と明恵は同時代人で奇しくもこの二人は、一夜、相い逢うて歌談を交わしたと、明恵の伝記は記している。西行は自分の歌は、「是れ如来の真の形体なり、されば一首読み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ」と語ったという。
 明恵は貞永元年(一二三二)正月十九日にその生涯を閉じるが「『其の期(ご)近付(ちかづき)きたり、右脇(うきょう)に臥(ふ)すべし』とて臥し給ふ。(中略)面貌(めんみょう)歓喜の粧(よそほひ)、忽ちに顕はれ、微笑を含み、安然として寂滅し給ふ」(伝記)と記されており、釈尊のお涅槃に順じて「頭北面西」にして示寂されたのである。
 涅槃会に因んで、西行と明恵という純一無雑に釈尊を恋慕しつくした二人の仏者のことを、思わずにはいれないのである。

竹中 玄鼎(静岡・平田寺先住職)

「〔法話〕涅槃の日に―お釈迦さまに魅せられて―

涅槃の日に―お釈迦さまに魅せられて―

 ご本山妙心寺の涅槃堂には、日本三涅槃像の一つとされる赤銅製のレリーフがあります。八十年の生涯を終えられたお釈迦さまの最期のありさまを描いたものです。お弟子をはじめとする人々はもとより、動物たちも集まり、泣き悲しんでいます。他の涅槃図では、鼻を振りかざし、前足を高くあげ、眼から涙がこぼれそうになった象がいて、悲しみを一層つのらせます。
 鎌倉の円覚寺の元管長朝比奈宗源老師は「お釈迦さまが亡くなった時、鳥や獣が、あんなに泣いている。私も犬や鳥から懐かしがられる人になりたい」と心に誓われたと聞いています。
 古くは、お釈迦さまを恋い慕い、生涯その生まれた国へ渡りたいと思い続けた明恵上人。二月十五日の涅槃の日に死にたいと念じられた西行法師など、お釈迦さまに魅了された人々は、枚拳に暇(いとま)がありません。高齢と病に苦しみながらも、歩を進められた最後の旅からも人間としての魅力の一端を窺うことができます。
 この旅での、食事の供養が原因で病に罹られました。血の迸るような下痢と激しい苦痛を見て供養した人は、どんなに己が心を咎めたことでしょう。苦しみの中にもお釈迦さまはその人を気遣い、「心を労(いた)めることはない。汝(おんみ)の行った徳は大きい」とお声をかけられ、かばわれたのです。死の床にあって自分がこんな言葉を吐くことができるのかと思います。最後までお側仕えされた阿難尊者を召しては「汝は以前(まえ)から私に侍(つか)えて私のために何事もしてくれた」と褒め讃え、手を挙げて樹の枝にすがり泣く尊者を慰めるのです。危篤の状態の中でも、周りの人を労わり思いやるお心が、生きとし生けるものにまで及ぼされてきたからこそ、鳥獣たちまで集まり、声ならぬ声をあげ続けたのも不思議ではありません。
 「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」これは修行者たちに遺されたお言葉です。無常であるから、今の一時一時を全力で生きることが大切であると、お釈迦さま自ら生涯をかけてお示しになられたことでした。一瞬も怠ることなく精進努力され、生命を輝かされた、その人格から滲みでた薫りと言行が、多くの人を魅きつけてやまなかったのです。
 お釈迦さまのお言葉を噛み締めた時、いつもこの位でよかろうと怠る自分がありました。森鴎外は、訳書『慧語』の中で、「意志の欠乏即ち怠惰である」と示し、健全な精神と肉体を保つ意志の大切さを説いています。意志を欠いたから、精神を怠り成就できなかったことがたくさんあります。強い意志があってこそ、怠らず努めることができ、「谷川の僅かな水でも、休みなしに流れれば、石に穴を開ける」(遺教経)ことができるのです。
 お釈迦さまのお言葉を今一度反芻して、人生をもう一度見つめ直してみたいものです。

鈴木 眞道(静岡・富春院住職)

「〔法話〕遊行」

 二月十五日は涅槃会、現(うつ)し身としての釈尊の入滅の日である。
 『遊行経(ゆぎょうきょう)』には釈尊の最後の伝道の旅の様子が詳しく記されている。読みすすむと胸がつまる。年老いて病身の釈尊が、臨終を自覚し、行く先々で倦(う)むことなく人々を教化する。
 何度も悪魔が現れては速やかに涅槃に入るよう唆(そその)かす。釈尊はその度に気力を奮って退散させる。老衰の身の旅のつらさから「死の誘惑」に駆られることもあったのだろうか。
しかし・・・・・・、どんな状況でも釈尊は本当に人々への慈愛に満ちている。
 鍛冶屋チュンダの供養による食中毒が入滅の直接の原因だったが、釈尊は侍者・阿難を遣わせ、彼に後悔させぬよう見舞う。
 さらに、釈尊入滅後のことを心配する阿難に「自帰依・法帰依、自灯明・法灯明」の教えを説き、問われるままに自らの葬儀の方法まで懇切に指示している。
 そして、いよいよ末期のその時。苦しい息を調えながら、釈尊は弟子達に告げる。
 「私の教えに何か疑問はないか。後悔を残してはいけないよ」と。
 三度促されたが弟子達は誰も声を発しなかった。そのことを確認した釈尊は、自ら静かに口を開いた。
 「この世のすべては移ろいゆくものである。放逸を為すことなく精進せよ」。
 そう言い遺して、釈迦は息をひきとった。
 人を導くことは大いなる慈悲行である。しかし、慈悲を口にするのは易いが、実践するには筋金入りの精神力が要求される。最後まで人々に心を配ることこそ、釈迦の人生―慈悲の生涯の完成だったのだろう。
 クシナーラーの沙羅双樹の間で、現し身の釈尊・肉体としての釈尊は入滅した。けれども、その教えは時空を超えて、今、親しく私達に届けられている。
 あの時、釈迦はまさに人類の師として、永遠の遊行に旅立たれたのだと私は思う。

高橋 宗寛(千葉・妙性寺住職)

「〔法話〕本当の自分が見えますか」

 二月十五日は、お釈迦様の亡くなられた日です。この日を『涅槃会』と言います。この『涅槃会』を、お寺の行事として終わらせてしまうのではなく、私達にとって本当の仏事にしてゆく事が大切です。その為にも、今一度お釈迦様のお言葉を心に深く味わって頂きたいと思うのです。
 おのれこそ      おのれのよるべ
 おのれを措きて    誰によるべぞ
 よくととのえし    おのれにこそ
 まことえがたき    よるべをぞ獲ん
 というお言葉を、『法句経』というお経の中に見る事ができます。
 これは、「自分の中にこそ本当の拠り所あるのだ。自分以外に何を拠る所とするのだろう。よくととのえられた自分こそが、本当に求めていた拠り所となるのである」という教えです。
 確かに私達は、自分の救いを他人任せにするから大概が、当てが外れてしまいます。今度は物に求めるから、どれだけ集めても満足できません。どこまでいっても、「こんなはずじゃなかったのに」と言って生きていかなければならなくなります。
 ですから、お釈迦様は私達に「自分の中にこそ、真の拠り所があるのだ」と示されたのです。但、それには条件があります。その条件とは、「よくととのえしおのれ」であるという事です。この「ととのえる」というのはどういう事なのでしょうか。
 それは、自分自身の姿がはっきりと見えるという事です。例えば、食事をした後に口の周りが食べカスで汚れていたとします。そして、そのまま鏡の前へ立てば当然汚れた顔の私がそこに映ります。鏡は何の細工もしないで、そのまんまの私を映し出します。汚れた顔の私も、お化粧した私もどちらも本当の私なのだと受けとめてゆく事が、自分をととのえてゆくという事なのです。
 私は日頃、お寺の事以外に実家の電気工事の仕事を手伝っております。私はこの電気工事の仕事が嫌でたまりませんでした。町内の同じ道を歩くのも、僧衣の時は堂々と歩き、作業服の時は下を向いて歩く。「自分は本当は坊さんなのに、今は仕方なく作業着を着ているんだ。言わば、これは仮の姿なのだ」と、いつも思っておりました。
 ある日、いつもの様に汚れた作業服姿で仕事から帰って参りますと、寺の近所に住む子供にこんな事を言われました。「おっさまってすごいんだね。お経も読めるし、電気も直しちゃうんだね。・・・・・・」って。この子の言葉に一瞬、頭を殴られた様な気がしました。
 そうでした。僧衣姿の私も、作業服姿の私も、どちらも本当の私でした。私が勝手に、「こっちが好き」「こっちが嫌い」と思って苦しんでいただけで、どちらも同じ様に私を私にしてくれていた大切な存在だったのです。考えてみますと、私には三人の兄弟がいますが、今それぞれの道を歩んでゆけているのも、父が昼となく夜となく電気工事の仕事をしていてくれたからこそでした。自分がはっきり見えるというのは、私を私にしてくれているすべての存在に頭が下がる。「ありがたい」と心から感謝して、生きてゆけるという事なのです。
 仏教は決して、痩せ我慢して良い人ぶって生きてゆけと教えるのではありません。自分を偽るのではなく、着飾るものでもなく、本当の自分を見つめる為の法(おしえ)です。本当の私の姿が見えた時に、それが私の法となってゆく。私の法となるから、私の生き方が変わってゆくのです。これが「自らを調え、生活を調える」という事なのです。
 涅槃会を前に「何故、私が私で在るのか」という問い掛けをご自身になさってみて下さい。しかし、仏様に尋ねられてもきっと何も答えては下さらないと思います。なぜなら、私自身が気づくから、初めて私の法となって私の中に活きてゆくからです。
 ここをお釈迦様は、「おのれこそ、おのれのよるべ」なのだと、私達に示されたのではないでしょうか。

木村 嘉文(静岡・龍梅寺副住職)

「〔法話〕仏法にあうことの大切さ」

 涅槃会は、二月十五日釈尊入滅の忌日にあたり、この日大涅槃に入り給うたことから「涅槃会」といいます。この涅槃会には、古来より涅槃像を方丈に懸け法要を修します。釈尊が沙羅双樹の間に頭北面西に臥され、その周囲には多くの弟子たちから天頭鬼畜に至るまで五十二類に及ぶものたちが集まり慟哭している有様を画いたものであり、東福寺の兆殿司が画いた大涅槃像は文化財としても有名であります。入滅された世尊との惜別の情をこれ程までに切実に画かれた画像は他にみることが出来ないのであります。その涅槃像の中で一人の老婆が足もとに跪(ひざまず)いて咽び泣き哀しみに戦(おのの)く姿が印象深く描かれています。
 若くて美しい婦人が、釈尊の教えを聞き仏教の信者になろうと釈尊の在(い)ます説法の地に出かけるのですが、釈尊は已(すで)にその地を旅立たれた後であり、あとを追って行くけれども遂にめぐり遭うことが出来なかったのであります。身は貧しく年老いて漸くこの地にたどり着いたときは、すでに釈尊は涅槃に入り給うたあとでありました。老婆は御足(おみあし)にすがって泣きながら
 「どうぞ、来世は常にみ仏を拝むことのできるようにして下さい」
となげく涙のしずくが釈尊の御足を漏したと大涅槃経にあります。
  人身受け難(かた)し 今すでに受く
  仏法聞き難(かた)し 今すでに聞く
  この身今生において度せずんば
  いずれの生においてかこの身を度せん
 現代に生きる私たちの生活も、また人間としての一生も、この若き婦人が年老いてなお聞法の縁にめぐり遭えなかったように、仏法の中にあってみ仏の教えに遭うことのない生き方をしているのでは無いでしょうか。いま生きている間に仏法に遇わさせていただくことの大切さが「涅槃」という厳粛な真理(おしえ)のなかで説き示されています。
 釈尊は静かに最後の説法をなされました。
 「では弟子たちよ、私はあなたたちに言おう、生きとし生ける者は、みな滅んで亡くなってゆく、みな怠ることなく、自分の道を忘れず努力して進むがよい。」と、私たちが生涯学んでいかなければならないと思います。

大野 鍈宗(愛知・林貞寺先住職)

「〔法話〕敵は煩悩地にあり」

 釈尊は「人生は苦なり」と喝破されているが、確かに人生における苦悩は、絶え間なく続く。その中で一番大きなウエートを占める苦は、人間関係におけるそれではなかろうか。老、病、死の苦は、生まれたかぎり誰れしもが、いずれ受けねばならぬ根本苦である。しかし日頃の人間関係が悪いと、苦は増幅して二重の苦となって迫る。周囲の人びとが懇ろに世話や看病してくれると、心も安らぎ、感謝の念も起こるが、逆だと、不平がつのり、老病の苦もさることながら、その方の苦で堪えられなくなる。
 自分を含めて世の人びとの様子を見ていると、寄るとさわると、他人(ひと)の悪口と自己主張の一点張り。悪口を伝え聞いた方は、これに執われ悩み苦しみ、また怨む。ことに当って先ず気にするのは他人の目。田舎の青年は他人の目がうるさいと都会に逃げる。やがて職場の人間関係で悩み、そこがいやになる。国際場裡においても、国同士の争いは、天災地変を遙かに上まわる残忍さで悲惨この上ない様相を呈する。
 こうみてくると、人間を苦しめるものは、人間以外の何ものでもない。動物の世界で同族同士苦しめ合うことは、そうざらにはあるまい。
 釈尊は、今のこの苦は結果であって、その原因は全て、過去の煩悩による利己的な行為や言葉や思いである。従ってこれらを消滅しなければ真の安楽は得られない。そのためには、因果の道理に適った正しい生活をしなければならないと説かれている。この教えが初転法輪といわれる釈尊最初のお説法である。その後四十九年に及ぶご説法は、みなこの教えの敷衍であったのである。
 そして最後のご説法「遺教経」の場において、多くのみ弟子がこの法を信じていることを確認して入滅された。なお、この経の中で「乱心戯論を捨離すべし」と勝手なおしゃべりを戒め、更に智慧(純粋ないのちの働きそのもの)の大切さを説かれ、正法を聞くことによって智慧に気づき、正法を思惟することによって智慧に目覚め、正法のままに生活することによって智慧を発見せよと示されている。この実践を忘れては仏教徒とはいえない。
 今月十五日は仏入涅槃の日(釈尊のご命日)である。先ず正法を聞こう。

中島義観(滋賀・多幸寺先住職)

「〔法話〕尊きいのち」

 便利な時代になったものです。パソコンを使用するようになってから数年、使いこなすまではいかないまでも、それなりに役立っています。たとえば、インターネット、さまざまな情報を瞬時として得られ、とても便利です。大学図書館の蔵書閲覧や美術館、博物館所蔵の絵画なども鮮明なデジタル画像で鑑賞できます。しかし反面、何か心に引っかかるものもあります。
 以前、インド仏蹟巡拝旅行でクシナガラの釈尊涅槃の地に参拝したときのこと、沈む夕日に映された堂内の涅槃像にぬかずいて読んだ遺教経……。その旅で得た体験は、私の中で血となり肉となり、いまでも生き続けています。そのときの心を揺さぶるような感動は、いかに鮮明であってもパソコンのモニターに映し出された映像との出会いでは得られないでしょう。ただし、実際に現地に足を運んでも悪天候や状況により、逆にがっかりしたこともありましたが、現実の世界は思うにまかせないものです。
 ところで、世の中がアナログからデジタル化へと変化するなかで自分の存在感が希薄になり、いのちが軽んじられてきたように思います。自分の存在感の希薄さは、死への軽やかさにもなるのでしょうか?日本で年間三万人を超える自殺者が出ている現状が、そのことを深刻に物語っています。
 釈尊は二月十五日、八十歳にて入滅されましたが、亡くなる直前まで病で痛む、老いたからだをいたわりながら教えを説かれました。そして、弟子の阿難を伴って生まれ故郷を目指し最後の旅に出ます。途中、ヴァイシャーリーという町に立ち寄り、木々の生い茂る小高い丘から象が振り返るがごとく、その美しい町を眺めておられます。それは山川草木、生きとし生けるすべての尊きいのちを慈しむようにゆっくりと……。
 現在、あまりにも軽んじられるいのちを憂うとき、「この世でただ一人の存在である自分」が、いま生かされている不思議に気づき、そのいのちを輝かせることを誓う涅槃会でありたいと切に願います。

栗原 正雄(広島・正法寺住職)

「〔法話〕生きざま 死にざま」

 禅宗寺院で必ず読まれる大慧禅師発願文に、「某甲(それがし)、臨命終の時、小病小悩七日已前に豫(あらかじめ)死の至らんことを知って、安住正念、末期(まつご)自在にこの身を捨て了って。」(後略)とあります。七日已前に死期を知ることは、大修行底の人でないとなかなかできないことです。
 お釈迦さまは、三十五歳でお悟りを開きになられ、八十歳でお亡くなりになるまで、あの広いインド平原をくまなく、人間が生老病死の苦しみから救われるために、どのように生きたらよいかと、ご説法を続けられました。しかし、ついに死の近きを悟られ、故郷のマガダへ帰ろうと向きをかえられました。しかし、途中クシナガラで、重病にとりつかれ、背骨は痛み、下痢もはげしく、血便も下りましたので、この地を最後の地と定め、娑羅樹の根元に横になられました。この時のご様子は、涅槃図に描かれているとおりです。
 お釈迦さまは、お弟子さま方に最後のご遺誡を諄々とお説きになられました。阿難尊者が「世尊のなき後、何を頼りに生きたらよろしいでしょうか。」と尋ねられますと、お釈迦さまは、最後の力をふりしぼって、「私は死なない。何を悲しむことがあろう。たとえ肉体は灰となっても、わが生涯の力をこめた説法は汝等の生命となり、汝等の魂の中に残る。そこに私はいつも生きている。わが教えを信じ、わが法を行う者の中に、私は永久に活(い)きている。法身は不滅である。唯信じ行え、私はそこに現われる。」とお教えになられ、お涅槃にお入りなされました。
 何と偉大なお最後ではありませんか。
 六十年安保改定で、日本の政情不安の時代に、長くアメリカ駐日大使として親しまれていた、ライシャワー博士が亡くなられました。博士は日本に生まれ、日本で育ち、日本をこよなく愛した親日家として、大変尊敬されておりました。博士の最期も実に立派でした。新聞で知り得たことですが、妻ハルさんとの間に四人の子供さんと、九人のお孫さんがおられ、夏休みを利用して博士の下に集まりました。博士は一人一人と最後のお話しをして、全体で記念写真を撮られました。その後二時間で入院しました。子供さん達がお別れしてまだ一人も家に帰り着いていない時でした。博士は死の時を覚悟していたのだと思います。最近医学が発達し、色々な機械や薬で、一時間でも二時間でも延命策がとられますが、博士は遺言して、一切の延命治療を断り、敢然と尊厳死されました。そしてまたこれも遺言で、お骨は家族全員で太平洋上、日本とアメリカの中間地で海にまかれました。死んでまでも、日米の固い絆を願われていたのです。
 博士もまた、大修行底の人と言ってよいと思います。
 さて、個人的なお話でまことに申し訳ありませんが、私の母の最期を語ってみたいと思います。母は昭和三十二年七十七歳のお祝いをしました。少し太り気味で、血圧も少し高かったのですが、大変丈夫で、いつもニコニコと元気で、朗らかな生活を送っていました。この年の十二月三十一日、一年のチリを払い落とし、兄嫁と正月の準備をとどこおりなく終え、最後にお風呂に入り、一言、「アア、いい湯だなあ。」と言ってあっけなく、サッサとこの世におさらばしました。誰の力も借りず、自分で湯灌までして。私はこの死にざまを見て、「立派だなァ。」と驚嘆しました。私も死ぬ時はこんなでありたいと思いました。親族親戚が集まって今後の相談をしている間中、母の枕元で仏遺教経を読んでいる老父の声だけが続いておりました。
 こんな死にざまのできた母を思いました。誰にでもできることではありません。こんな死にざまができるとは、その人が生前どんな生きざまをしたかということです。世間一般の人々は、ボケたくない。どうせ死ぬならポックリ行きたいと願っています。何がしかのお布施を出せば、ポックリ死ねるポックリ寺がはやっているとか、いつか新聞で読みました。そんな簡単なものではないと思います。
 私の母は小学校四年しか出ていません。独学でお裁縫の先生の免状を取り、村の娘さんを教え、「お師匠(おっしょう)さん、お師匠(おっしょう)さん。」と慕われていました。大正の初め、県下で一番早く、女子青年団の前身である処女会を結成し、村おこしに活躍しました。大正十二年関東大震災の時は、処女会を引き連れて、米や食料品をいっぱい持って、何回も東京へ慰問に行ったりもしました。村の処女会を県下大合同にまとめ上げたりもしました。貧乏寺で父は村役場に勤務し、寺の仕事は母が一手にとりしきりました。処女会の発展のために、県や国に幾度か陳情に出掛けたり、私を捨てて、大活躍しているかつての母親の面影がいつも目に浮かんでまいります。清見寺の古川大航老師(当時妙心寺派管長)さまから、耀徳院曦山智照禅尼の法号をいただきました。

服部 道英(静岡・乾徳禅寺先住職)

「〔法話〕人の音せぬ暁に」

 春華方開(しゅんかほうかい)。冬の厳寒を忍んできた蕾の開花する音が、至るところから響いてくるような、まだまだ息も白む早春での風景です。
 平安末期に後白河法皇が編んだ「今様(いまよう)」と呼ばれる歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には
   仏は常に在(いま)せども
   現(うつつ)ならぬぞあはれなる
   人の音せぬ暁に
   ほのかに夢に見え給ふ
と詠われています。蕾の開花する音を聴き、仏の姿を看ようとは「ほのかに夢に見え給ふ」刹那の幻との遭遇なのかも知れません。
 二月十五日は、お釈迦さまがお亡くなりになった涅槃の日です。涅槃とは、煩悩の炎が吹き消された心のさまであり、そこには「人の音せぬ暁」のような雑念のない底をつく清浄な静寂さを予感させます。

 汝等(おんみら)よ、吾が終わりすでに近づき、とわの別れ目前に逼(せま)れり。されどいたづらに悲しむことを止めよ。滅びるものは壞身(えしん)に外ならず。眞の仏はさとりの智慧にして、永久(とわ)に生き存(ながら)えん。
 吾が壞身を見るものは吾を見るものに非ず、正法(さとり)に目醒むるものこそつねに吾を見るものなり。〈『遺教経(ゆいきょうぎょう)』〉
と、沙羅の林で横臥されたお釈迦さまが、別れを惜しみ泣き崩れるお弟子さんたちに最期の教えを遺されました。その日のできごとの様子は、涅槃会に本堂に掲げられる「涅槃図」にも詳しく伺い知れます。
 私は、この『遺教経』をお通夜の席でお唱えします。お釈迦さまの言葉として綴られた経文ですが、それは、まさに今ここで大切な亡き方が、私たちに向けてのメッセージとして受け止めたいからです。世の移ろいに逆らえない最期のときを、我が身を以って示されたお釈迦さまの姿は、そのまま大切な方の姿そのものです。
 お弟子さんたちが亡骸に名前を呼びかけようにも返事は返ってきません。しかし「私は、おまえさんたちの手の届かない、遠い存在になってしまったわけではないよ」と、お釈迦さまがやさしく諭されています。
 『梁塵秘抄』に詠われた「人の音せぬ暁」のように、深い深い静寂さに静まりかえった心境が「ほのかに夢に見え給ふ」ことだけにも、そっと掌を合わせさせるのです。この安らぎを「正法に目醒むるものこそつねに吾を見るものなり」と、故人は最期の教えとして私たちに遺して頂けたのです。

足立 宜了(岐阜・正覺寺住職)

「〔法話〕寂かな心」

 十五日は涅槃会(ねはんえ)です。釈尊降誕の四月八日、お成道の十二月八日とともに三大仏会(え)として、わたしたち仏教徒が最も尊んできた日です。当日寺院の多くは涅槃図をかかげて厳粛な仏事をいとなみます。涅槃図を拝すると横臥された世尊は多くの弟子や信者にとりかこまれ、常隨の阿難尊者の如きは失神して倒れたままです。沢山の動物たちも泣き悲しんでいます。経典によるといよいよお亡くなりになるとき、沙羅双樹は時ならざるに花咲き、虚空より香華が如来の御身に降りそそぎ、微妙な音楽が天の方より聞こえてきたといいます。その時最後のご垂訓がなされたのです。
 「アーナンダよ、汝らは今、法と隨法とによりて住し、法によりて行ずべきであると、かように学ぶべきである」と。
 世尊は私たちに本当の如来供養の道とは、仏前に香華をささげ読経するだけでなく、法を学び法に隨って実践せよと教えられたのです。この時世尊はわたしたちに毎日が仏教生活でなければならぬことの大切さをとかれたのです。
 涅槃はもともと梵語のニルヴァーナで、吹き消した状態をいい、煩悩の火を焼きつくして智慧が完成するさとりの境地をさすことばですが、釈尊のご入滅をも意味します。
 人間は余りにも多くのものをもちすぎ真実の自己を見失っているのです。もちすぎるとは物だけに限りません。情報過多で精神的にももちすぎ、貪瞋痴(三毒)の苦しみと自己保全の迷妄が起きるのです。世尊は人間はみな「むさぼりの火で生老病死の炎が燃えさかっている」といわれます。ご自身はその燃えさかる炎を吹き消して涅槃に住されました。涅槃寂静という教えがあります。このことは決して燃えさかる煩悩の炎を吹き消して観念的な寂静の世界に逃げこむということではなく、煩悩を転じて菩提にするという積極的な解脱(げだつ)の実践が出てこなければならないということなのです。
 涅槃会を機に私どもの中に埋れている自らの仏心をたずね、菩薩の実践行に精進いたしたい。かくて仏教が真の意味の生きる力となるのです。

佐々木 瑞昌(大分・西白寺先住職)

「〔法話〕死=志」

 二月十五日は釈尊の涅槃会である。鍛冶工の子、チュンダが供養した、きのこの入った食事で中毒を起こし、入滅された。病気になられた釈尊はチュンダが悔悟の念で苦しんだり、他の弟子たちに厳しく責められていないか、と心配された。そこで説法された。
 「私はこの世に生を受けてから、二つのすばらしい供養の食物をいただいた。苦行をしたが何も得られず、山を降りて、スジャータという村の娘にもらった乳粥がひとつ。これで身体を癒し、悟ることができた。もうひとつはチュンダの食物で、煩悩の残りの無い涅槃の境地に入ることができる。この二つの供養の食物はまさにひとしい果報がある。チュンダはよき功徳を積んだのだ」(『大パリニッバーナ経』要約)。釈尊のこの言葉を耳にしたチュンダの感激は如何ばかりか。
 拙寺の近くに肛門科の病院がある。院長の三枝先生が大変印象深い話をされたことがあった。直腸癌で助からない重病人は二種類あるという。ひとりはこんな病気なのに、よくあれだけ明るくって、看護婦さんにも「有難う」と微笑する、心が落ち着いている患者。もうひとりは聞くに耐えられないような愚痴を言い、看護婦さんを困らせる患者である。どうしてこんなに違うのか、長い間、観察してきた。静かに死を迎える、安らかな患者は、人生を一生懸命生きただけでなく他人のために何か、尽くしてきた人が多い。反対にいらだち、人を困らせる患者はなんとなく生きてきた人、自分を育てることを忘れてきた人が多いと。
 聖隷三方原病院のホスピス病棟所長、原義雄先生は、「死に向かって、自分が自分を整える。自分が描いた理想的な自分に自分を近づけていくこと、自己実現ということが死の意味だ」と語っている。死は耐えがたく辛い。しかし死があるからこそ、いつ死んでも後悔のない人生を送れるよう、自分を磨き向上させる誓願が求められる。死=志なのだ。

藤原 東演(静岡・宝泰寺住職)

「〔法話〕最上の幸せ「涅槃」」

健康(すこやか)なるは、最大の恵み
 足るを知るは、最高の富
 信頼は、最強の絆
 涅槃こそ、最上の幸せなり
 迦葉尊者がお釈迦さまにたずねました。
 「涅槃とはどういうことでしょうか」お釈迦さまは答えられました。
 「涅槃は、心の傷のないことです。たとえば毒矢に射られた人が良医のおかげで、癒えるように、貪り、瞋(いか)り、愚かさの三毒の傷を“おしえ”によって傷のない状態にする。これが涅槃です。涅槃とは煩悩(わずらい)からの解放です。」
 インドの詩人タゴールは、東洋人最初のノーベル賞受賞者です。氏は四十代で最愛の夫人を、愛娘を、尊敬する父を次々に失い、国は戦場となりました。人生の苦悩を重ねて味わいますが、信仰心が詩(うた)にうかがえます。
 「日毎御身(ひごとおんみ)は私の願いを次々と拒むことでこの身を、その贈り物を受けるのにふさわしいものにしてくれる。浅はかな漠然とした欲望の危険から、私を救いながら」
 「お釈迦さまの教えは、涅槃です。平安の境地を最高の目的としています。その道は、単に悪い考えや行いを否定するのではなく、愛にたいする一切の限界を除去することです。」
 尊敬するお釈迦さまの“おしえ”を、ひたすら生きる支えとされました。
 苦しみ、悲しみを体験されている方は、他人の痛みがわかり感性が豊かです。
 他者への思いやりは、自身の心を清めます。
 お釈迦さまは、ハバの街でチュンダから食事の供養を受け、お腹をこわされました。
 苦しみながらも、感謝して、親しく語りかけ、いたわり、慰め、いのち尽きるまで導かれました。無条件で他人に尽くす限りない愛を示しながら。
 二月十五日は、お釈迦さまのご命日、涅槃会です。人生最上の幸せを思う日です。

(参照)法句経、涅槃経、タゴール詩集、遊行経、文殊師利問経

横山 博一(静岡・東光寺住職)

「〔法話〕厳しさ寒さのなかで」

 厳しい寒さを感じるのは、一月の半ば過ぎからこの月に掛けてのようです。如月とは着更に着るほど寒さの厳しい月だともいいます。
 雪の朝などは、車も通らず世間の音まで凍てついたように静かで、ときおりザザッと聞こえる竹藪の雪の落ちる音にほっとするような時もあったことや、餌を求めるヒヨドリの甲高い声が響き渡っていたことが思い出されてきます。あまりに寒いので目が覚めて寝られなかったという話もよく聞いたものです。でもこうしたことを体験することで冬の寒さが身に沁みて分かったものでした。
 昨今の家屋をはじめ、至る所で冷暖房が完備され、夏冬共にしのぎやすくなっているところが多く、私たちの生活を取り巻く環境は大きく変化しています。ところが、こうした自然に逆らった生活の形の変化というものが、人間が本来持ち合わせているあらゆる困難にも適応できるはずの潜在能力というものを衰退させてきた一因ではないかと思うのです。
 そうしてみますと僧堂の生活というのは、簡単明瞭で自然と共にあり、暑ければ開ける、寒ければ閉じるというくらいシンプルなものだったと思うのです。夏冬四季を問わず素足で過ごし、着るものはいつも同じものであり、食べるものも毎日同じでした。その中では何ら不自由を感じなかったのは生活に適応していたからでしょう。
 この二月の十五日はお釈迦様が涅槃(ねはん)に入られた日です。涅槃にお入りになる時に多くのお弟子様たちの見守る中で「汝等(おんみら)よ 今我、涅槃(やすらい)に入るを見て正法常久(とわ)に絶えたりと思う事なかれ。(略)汝等よ、教えの要は心を修(おさむ)るにあり。ひたすら欲を抑え、己に克たんと勉べし。身を端(ただ)し語を正し、意を誠にして無常の理を忘るる事勿れ。」(略遺経(りゃくゆいきょう))と、最後の説法をされたのです。私が、涅槃に入ったからといって教えや私がなくなったというのではありません。五欲のままに動かされ、周囲の変化に戸惑っている自分の心を修めようと精進する人とともに私はあるのですと、説かれています。
 お釈迦様というのは二千五百年以上も前にお亡くなりになった方ではありますが、心を修めようと修行をする人といつも一緒にある存在であることを、私は厳しい寒さの中で教えられました。

林 学道(兵庫・靈雲寺)

「〔法話〕戒を尊ぶ」

 二月十五日は「涅槃会」です。お釈迦様のご命日です。
 十九年前(昭和六十年)「仏跡巡拝の旅」に参加しました。
 一月二十九日、大阪国際空港を出発。バンコクを経由し、カルカッタ(マザー・テレサ女史訪問)~パトナ(ビハール州知事表敬訪問)~ナーランダ~ラジギール(竹林精舎・霊鷲山)~ブッタガヤ(成道の地)~サルナート(初転法輪の地)~ベナレスと経由して、二月三日、クシナガラに到着しました。
 白亜の「涅槃堂」が佇み、周りに沙羅樹が繋っています。
 沙羅の木は、日本のそれとは異なり、泰山木のような感じの樹木でした。涅槃堂内で法要を厳修しました。数日はやい涅槃会となりましたが、お涅槃の地で法要に、感激一入(ひとしお)でした。
 法要を終えたころには、夕方となり、茜(あかね)色の空に黄金色の夕陽が沈みつつありました。その日最後の訪問地、荼毘(だび)塚へ向かいました。荼毘塚(火葬の地)に着いたころには、すっかり日は暮れ、夕闇の中で法要を修しました。ふと、見上げると月が皎皎(こうこう)と輝いていました。この時の、清麗な月の輝きを未だ忘れることができません。
 お釈迦様が最後の説法(『遺教経』)の最初に説かれたことは「戒を尊ぶ」ことでした。

  汝等比丘、我が滅後において、当(まさ)に波羅提木叉(はらだいもくしゃ)を尊重し、珍敬(ちんきょう)すべし。闇に明に遭い、貧人の宝を得るが如し。当に知るべし、此れは則ち是れ汝が大師なり。若し我れ世に住するとも、此れに異なることなけん。

 「波羅提木叉」とはインドの言葉で、「戒律」を意味します。
 「私が死んだ後は、私の残した戒律を大切に守りなさい。それは闇夜の光明であり、貧しい人にとっては財宝でありましょう。戒律こそ、あなたの大いなる師です。もし私がこの世に生きていたとしても、この戒律以上のことを教えることはありません。」
 涅槃会を迎えるに当たり、「戒を尊ぶ心」を遺教の第一番に示されたことの意味を、しっかりと心に留めなければならないと思います。今、「無戒の時代」と言われます。「ばれなければよい」との風潮が蔓延している現代社会にあって、「戒を尊ぶ心」を取り戻すことの意義は大きいものです。当たり前のことと受け取りがちな、「五戒」の一つ一つを深く学ぶことからの出発です。

微笑 義教(長崎・寶昌寺住職)

「〔法話〕ナマステ」

 昭和五十三年十二月、当時の管長猊下山田無文老大師を推戴申し上げ、インド日本寺創建五周年記念国際成道会法要の使節団の一員として随行した時を想い出す。一生に一度はインド仏跡参拝を、と夢にまでみていたので、その願いが実現されたことは私にとって無上のよろこびであった。短いインドへの旅ではあったが足をはこぶ処、感激の涙を流すこと屡(しばしば)であった。その旅で覚えて帰って来たのが“ナマステ”という言葉だった。何やらの一つ覚え、と世間ではよく言うがまさにその通りで、ナマステで旅行中通したのである。
 英語で話をすることも出来ない、インドの言葉でインド人と会話することの出来ない私は行き交う人々にナマステ、土産物を売りにくる子供にもナマステ、背に子供を負い、両方にヨチヨチ歩きする母と子に逢えばナマステ、お髭の老人に逢えばこれまた、ナマステ、店へ立ち寄ればナマステ、こんな具合に、朝、昼、晩の区別なくナマステ。日本では朝であれば、「おはようございます」昼あえば「今日は」夜は「こん晩は」時には「ありがとう」「すみません」。と挨拶するのであるが、インドではすべてをナマステで済してしまった。
 さてそのナマステとはどんな言葉であろうか、その言葉にはどう意味があるのであろうか。これはサンスクリット(梵語)でナマス、ナマセ。インドの言葉ナマスを発音に近い漢字で当て字をすると南無であるのである。専門の言葉で音訳、又は音写ともいうが…。私達はみ仏に向えばきまって南無と口にする。南無釈迦牟尼仏、ナムアミダブツ、南無観世音菩薩……等々み仏のお名前を呼ぶ時必ず南無と口にし、手を合せて頭を軽く、時に深々とさげるのである。その南無がナマステという言葉である。
 ではどんな意味が含まれているのであろうか。この言葉には随分多くが含まれているのである。先ず「信ずる」。という意味がある。又願う、誓う、任せる等々である。従って南無阿弥陀仏と唱うれば、阿弥陀如来に私の身も心もすべてをお任せします、いかようになさっても結構でございます、ということになるのである。しかしここでもっとも大事なことは無条件でなくてはならぬのである。なかなか容易なことでは無条件で仏に対することが出来ない、任せた以上はとやかくいうことはできないのである。即ち条件付きの南無では本当の南無ではないということである。南無の根底には信があるこの信は金剛信であって風が吹けば軽やかに飛び去るような信ではないのである。心そこから信が確立されていなければ任せることなど出来るはずがないのである。
 信ずる、願う、任せる、誓う、等々沢山ある意味を言葉で表現すると南無となり、その時私達は必ず手を合わせている、これが無意識であっても不思議な事に合掌しているのである。
 随分前のことだがインドのネール首相が訪日された時のことを想い出すのであるが、首相が飛行場に到着されタラップを降りてこられた時、真先きにされた所作は合掌だった。出迎えの日本の政府関係者は手を差し出しアクシュをしようとした。その時の模様が大きくテレビ画面に映し出されたので気がついた人も多かったと思うが、私の脳裏には首相は合掌され、日本関係者はアクシュ、あの一時のチグハグの光景が今尚はっきりとこびりついている。
 極く最近ある国の首相が来日された。大切なお客様ということでこれまた多勢の関係者が飛行場までお出迎えに出られた。タラップを降りてやはり最初になされたのは合掌だった。こんども日本関係者の代表者が右手を差しのべてアクシュをしようとした。ネール首相の時と同じように軽く頭を下げ、静かな笑顔で両手をしっかり合せられて挨拶された。それからアクシュ。ここでも一コマのずれがあるから当然ながら見ている私達にも不調和の姿が目に映ったのである。某国の首相も仏教国の首相であった。
 この二人の首相は声に出して南無とは申されなかった。ある古人の教示を思い出すのであるが、「南無とは頭を下げることだ」と。合掌して頭を下げるという事は口には出さなくても南無の心の現われであるのである。
 合掌した静かな眼差し、至極自然の容姿から、その奥にある心の中で南無を唱えておられたであろうことは私にも容易に受け取ることができたのである。なんとすばらしい姿であろう、尊い姿であろうか。私の胸に大きな波長となって伝わってきたのである。ややもすると忘れ勝ちになる私の心を呼び起してくれたような気持ちになったのである。又同時にとても淋しいものを感じたのは私一人ではなかっただろうと思うのである。
 日本人は手を合わせ、ナマステ(南無)を口にすることを忘れ、ナマステ(南無)の心を失ってしまっている。何故だろうか。物質文明による豊かさを求め、ひた走り続けて来た故ではなかろうか。そして今やその目ざす豊かさを手中に入れ、それを謳歌しているのである。謳歌するのも結構かも知れぬが、今度はその大波、小波の中で、自己を忘れ、人生にとって真の幸は何であるのかも見失ってしまったのである。
 日本は、「物で栄えて心で亡ぶ」、と口々につぶやきながら、その人々のつぶやきが現実化されようとしているのである。これではいかん、なんとかしなきゃ、最近はよく「二十一世紀は心の時代」という言葉を耳にするようになって来たのである。
 中国の教えに「小住為佳」というのがある。一息しましょうよ、ということのようだが、今こそ一息して私達は足元を直視しなければならぬ時と思う。
 二月は釈尊の涅槃の月、北頭西面されている涅槃の図を拝し、ナマステの心を今一度しみじみ味わいたいものである。ナマステの心ですべて事足れることを自覚したいものである。

羽賀 文圭(岐阜・蓮華寺先住職)

「〔法話〕お釈迦さまのご入滅―自灯明 法灯明―

 二月十五日は、涅槃会であります。教えの父お釈迦さまが、クシナガラの郊外、沙羅双樹のもとで八十歳の生涯を終えて涅槃に入られたご命日です。
 八十歳の老齢を迎えられたお釈迦さまは、死期の近きを予感され、生まれ故郷のルンビニに向かって北上し、村々で伝道しながら、クシナガラに到着されました。折しも鍛冶屋のチュンダの供物をいただき、激しく体調をくずされました。お詫びをするチュンダを慰め、多くのお弟子さまの中、多聞第一と呼ばれた阿難尊者(あなんそんじゃ)の「真の灯、依り処」の質問に対して、最後の説法をお説きになりました。
 弟子たちよ、おまえたちはおのおの自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない、この法を灯火としよりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない
 自灯明、法灯明の教えであります。
 「自灯明」自己の真の灯明(ともしび)は、正覚(しょうかく)の智慧、慈悲心である。無明、闇夜を照らす灯明であり、依り処です。「法灯明」法とは正覚の真理・道理です。この法に帰依することによって、一切の我欲我執を離れ、真実・安心して生きることが出来ます。
 正覚の真理は、諸行無常―つくられたるもの、うつりゆくはこれ初めの真理なり。諸法無我―この世に在るものは、ひとりに非ず、これ次の真理なり。涅槃寂滅―おのれなきものにやすらいありとはこれ終りの真理なり。  三法印
 汝等(おんみら)よ、吾が終りはすでに目前に逼(せま)れり、されどいたずらに悲しむこと止めよ。吾が壊身(えしん)を見るものは我を見るに非ず。正法に目醒(めざ)むるものこそ、つねに吾を見るものなり。われ永久(とわ)の涅槃に入らんとす。これ最後の教えなり。
 説き終ったお釈迦さまは、双樹のもと満月冴える夜、北面に頭を置き右脇を下にして静かに涅槃に入られました。
 お弟子さまをはじめ、国王から庶民、すべての人々、動物にいたるまでお釈迦さまの入滅を悲しみました。涅槃図は、その時のご様相です。

  願はくは 花のもとにて 春死なむ
     そのきさらぎの 望月のころ     西行

尾関 義昭(京都・江西寺先住職)

「〔法話〕お元気ですか」

 二月十五日は、お釈迦様の亡くなられた日で、多くのお寺で涅槃会(ねはんえ)の法要が行われます。ご本堂の正面に掛けられた涅槃図をご覧になられた方も多いと思います。
 沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で、今まさに亡くなろうとしているお釈迦様のまわりを、たくさんの菩薩、弟子たち、諸天を始め象や犬、蝶々、トンボ、はてはミミズにいたるまでが取り囲み、悲しんでいる様子が描かれています。
 この画は、「一切の世間において、生まれる者は皆死に帰る」と言うことを表しているのです。
 今、日本は長寿世界一であり、最も豊かな国の一つでもあります。
 WHO(世界保健機関)が昨年発表した、平均で何歳まで健康に生きられるかという「健康寿命」の統計でも日本は七十四・五歳で世界一でした。
 健康で長生きできることは喜ばしいことです。しかし、残念なことに私たちはいつ病気になるかも知れませんし、老いは一日一日確実に迫ってきます。そしていつかは寿命の尽きる日を迎えなければなりません。その用意は果たして出来ているでしょうか。
 私たちは色々な方の亡くなる場に会い、さまざまなお葬式に出会いますが、自分のお葬式はどんなものになるのか、などと考えることはほとんどありませんし、又、病気や怪我などで寝たきりになることについて考えることもありません。
 「寝たきりだけにはなりたくないなぁ」とは、よく聞く言葉ですが、ならないと言う保証は誰にもないのに「そんな縁起でもない」と、なったときのことはあえて考えないことにしています。それで良いのでしょうか。
 菩提和讃(ぼだいわさん)に「春は万(よろず)の種をまき秋の実りを待つのみか……」と、説かれているように春に種をまくとき、秋の収穫を自分の力で出来るつもりでいますが、果たして無事に実るでしょうか。立派に実ってもそのとき私たちは収穫に立ち会えるでしょうか。
 元気でいるときは、ある程度自分の望みをかなえることも出来ますし、自分の力で生きていけるような気がしていますが、いつまで続けられるでしょうか。
 私は、八十二歳になる母親と二人で暮らしていますが、その母が加齢と持病のため、少し日常生活が不自由になってきているのを見ていますと、私が八十二歳になったらとよく考えます。その頃は大勢の方のお世話になるしかないでしょうから、その場になって困らないように今から気をつけなければと思っています。そう思って、身の回りを見てみると、今でも大勢の方のお世話になっていることに驚きます。若さや健康、力を誇って気がついていないだけで、一人では生きていけないことを私自身が忘れていたのです。
 又、私は自分のお葬式のことを思います。決して豪華なお葬式は望みませんが、お参りにきて下さる方に心から惜しまれ、そして悲しんで頂けるようなそんなお葬式でありたいのです。しかし、私にその資格があるような生き方ができているでしょうか。
 今、日本では「自分らしく、自由に生きること」が一番大切だとされていますが、そのためには回りの人を押しのけるほどの気持ちと力が必要です。しかし、お互いにそうすることが現代のストレスとなり、争いの元となっているのではないでしょうか。いつかは、なくなるであろう力に頼ることが「自分らしく、自由に生きること」を難しくしているのです。
自分のお葬式のあり方を思うと、私たちは一人で生きているのではなく、大勢の人の中で生かされているのだと強く感じられます。
 涅槃図の前に立ちそんなことを考えていました。

奈良 空山(兵庫・印南寺住職)

「〔法話〕涅槃会―死をみつめよう―

  土不踏(つちふまず)ゆたかに涅槃し給へり

 釈尊の涅槃像にちなんで川端茅舎が詠じています。ゆたかなつちふまずとは、生涯を一切の人々のために慈悲を尽くされた、釈尊の偉大な人格を讃えています。また、生死を超えた釈尊の死は、今は身も心も大寂静の世界に入られたということから入涅槃といいます。
 私たちはどうでしょうか。「死ぬのは嫌だけど何ともならん」と受取るしかないのでしょうか。今日は、ガン告知とか老いの様々な問題などから死の問題がクローズアップされてきました。そうではなくても、人間一度は死ということを考えるべきではないでしょうか。
 先日、仏事の席で、隣に坐られた方がしみじみ述懐されました。その方は新聞社にお勤めでしたが、六十歳を前にして心筋梗塞に見舞われました。イヤも応もなく生と死の境をまざまざと味わうこととなりました。そして「今までは自分の力で堂々と生きてきたと思っていましたが、とんでもない。目に見えないいのちというか、すばらしい力によって支えられているようだし、多くの人々やものによって生かされていたんだということが、よくわかりました。もうこれからは一切おまかせです。感謝です。これからの人生は少しでもお返しさせていただければと思っています」と。すっかり人生観も変わり、お顔には喜びと安らぎがみえます。おそらく急に変わられたのではなく、誠実な執筆の仕事を通じて、心の奥底では常に真実のものを求めておられたからに違いありません。
 さて、仏さまがあなたに百年のいのち、永遠のいのちを与えると保証されたら、真実ありがたいと喜べるでしょうか。また、どう生きるというのでしょうか。
 どこまでも充実したほんとうの生き方ができると自信のもてる方なら、もう死は小さな問題です。より多くの人々のため、あるいは仕事や芸道のため…「頂上を 忘れて登る 富士の山」の姿勢で生きられるならしめたものです。死の問題はそのまま生き方の問題です。

横田 宗忠(香川・法泉寺住職)