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「【解説】釈迦如来」

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 京都東山に東福寺という禅寺がある。ここには有名な大涅槃図が伝来し、毎年三月の涅槃会に合わせて特別公開される。その色彩の豊かさもさることながら、その大きさは見る者を圧倒する。縦約十五メートル・横約八メートルもあるそうだ。これはかつてこの寺にいた吉山明兆(一三五二~一四三一)という画僧が応永十五年(一四百八)に描いたとされる作品である。
 この作品の描かれた数十年後に、とある禅僧がこれを眺めている。それは、この涅槃図を詠んだ二首の詩が遺っていることから判明したことである。次に掲げるものがそれだ。

     涅槃像 二首
  作佛披毛無主賓   作佛披毛に主賓無し
  春愁二月涅槃辰   春愁二月 涅槃の辰
  有情異類五十二   有情異類 五十二
  混雜紫磨金色身   混雜す紫磨金色の身に

 涅槃に入るお釈迦さんと、その周囲で嘆き悲しんでいる動物たちとに、主体も客体もない。その涅槃の季節は物悲しい春の二月である。五十二種類にのぼる一切の生きとし生ける者たちが集まって、美しく輝く御釈迦さんの周囲をうじゃうじゃさわがしく取り巻いている。

〔語注〕
・作佛…佛になること。 ・披獣…獣になること。 ・主賓無し…自他などの相他した区別のない世界。・五十二…入滅の際し集まった五十二種の衆生。

    又
  頭上北洲脚下南   頭上は北洲 脚下は南
  前三三也後三三   前三三や後三三
  逼塞乾坤釈迦像   乾坤に逼塞す釈迦の像
  看來慧日一迦藍   看来れ 慧日の一迦藍

 頭は北向き足は南向きで、ごろんと横たわっているお釈迦さんの周りに、あっちこっちにちらほらと数人ずつの者たちがへばりついている。天地をいっぱいにふさげているこの巨大な涅槃図を、東福寺の佛殿へ、ぜひ見にいらっしゃい!

〔語注〕
・北洲…来倶盧洲。四大洲のひとつ。 前三三後三三…こちらにちらほらあちらにちらほら。『碧巌録』三十五即に出ることば。 ・乾抻…天地。 ・慧日…東福寺の山号。

 『狂雲集』に載る詩である。さあ、これでとある禅僧というのが誰だかお分かりだろう。それは、一休宗純(一三九四~一四八一)である。この二首の詩がいったい一休のいつ頃の作であるかは不明だが、一休がこの時に観た明兆の涅槃図は、出来上がってから数十年しか経っていないので、きっと今よりももっと鮮やかな色彩であったに違いない。その上、当時としても例の大きさを誇る涅槃図であるがゆえに、相当の迫力があったことだろう。その感動を詠んだのが、この二首なのである。
 この二首の詩を見てみると、涅槃図に描かれるお釈迦さんの重要な特徴が表わされていることに気付く。それは東福寺の涅槃図に限らす、ほぼすべての涅槃図に共通した特徴である。
 その特徴はふたつある。
 ひとつめは一首目の結句「紫磨金色の身」。これは、お釈迦さんの身体がピカピカと金色に光り輝いていることである。およそ、仏画や仏像としてのお釈迦さんは、ほとんどの場合、金色である。理由には、仏の三十二相(三十二の特徴的姿)のうちに「金色相」や「丈光相」というのがあるから金色であるとか、あるいはお釈迦さんの絶対性を表現するための作品装飾として金色が使用されたとも考えられる。だが、涅槃図の場合には、やはり『涅槃経』に載るアーラーラ・カーラーマ仙人(お釈迦さんが王宮を出てから最初に訪ねた仙人。無所有所定を究極の境地とした)の弟子であるプックサが供養した金色衣をまとった御釈迦さんの姿に基づかねばならない。しかしここで,アーラーラ・カーラーマ仙人のお弟子さんが登場するとは、なんとも驚きである。
 ふたつめは二首目の起句「頭上は北洲 脚下は南」。これは、お釈迦さんが頭を北、足を南にして寝ていること、つまり「北枕」である。日本では葬儀の際に死者を北枕にするが、これはお釈迦さんの弟子としてその入滅の相を同じくすることに依る。けれどもなぜお釈迦さんは北を頭にして寝たのだろうか。これにはお釈迦さんが入滅の後に北方に仏法が伝播することを願ったとする説(『遊行経』)、クシナガラからは北の方角にあたる故郷・カピラヴァスツの両親に足を向けなかったとする説(前田行貴『仏跡巡礼』)などがあげられるが、いずれも後代の説なので本当の理由はわからない。南北東西帰りなんいざ!
 涅槃図に描かれるお釈迦さんの特徴は、大抵この「金色身」と「北枕」の特徴を外れない。だから一休は巧妙にこのふたつの特徴をそれぞれ二首の詩に詠みこんだのであろう。今でも涅槃会の際に東福寺へ赴き、かの大涅槃図を見上げてみれば、一休在世と相変わらずお釈迦さんは頭を北にしてピカピカしている。

中瀬 祐太郎(花園大学学生)

「【解説】阿那律尊者」

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 釈迦十大弟子の一人。原語はアヌルッダ。阿奴律陀・阿泥律陀・阿泥盧豆などとも音写され、無滅、無貪、離障、如意、善意などの意。
 「涅槃図」には、実は阿那律尊者が二箇所に描かれている。ひとつは「図」の上方で、雲に乗った摩耶夫人を先導している姿。もう一つは、釈尊が横たわる宝床の手前で悲しみのあまりに気を失って倒れた阿難尊者を介抱している姿である。習慣として、前者を指す場合は阿那律、後者を指す場合は阿泥樓駄尊者と称する。(※阿泥樓駄の項を参照)
 阿那律は一切を見通す智慧の眼をもつことから、天眼第一と称される。これには次のような故事がある。阿那律は多くの子弟と共に出家した。ところが、釈尊が祇園精舍で説法をされている最中、なんと居眠りをしてしまった。釈尊に叱責された阿那律尊者は深くこれを悔いて、仏陀の前で決して眠らない不眠不臥の修行をすることを誓った。釈尊は、怠惰も煩悩によるものであるが、過剰な修行もまた煩悩によるものであるので、休息するべきだと諭されたが、阿那律尊者は、それでも絶対に眠らないという誓いを持して、ついにはそれが原因で失明してしまった。しかし肉眼は光を失ったが、その代わりに、一切を見通す智慧の眼(天眼)を得たという。
 失明した後のあるとき、法衣がボロボロになっていたので、新しく作ろうというので、阿難尊者があちこちに赴いて、「どなたか阿那律長老のために法衣を縫ってあげてください」と頼んだ。このことを知った釈尊は、「どうして私にも頼まないのか」とおっしゃり、弟子たちとともに縫ったという。
 また一説には、阿那律尊者が法衣を縫おうとしたが、失明しているのでなかなか針穴に糸がとおらず、「福徳の有る方がおられれば、この針穴を通してください」と念じた。釈尊はこのことばを神通力で聞き及び、阿那律尊者の前に現れて、「わたしが針穴をとおしてあげよう」とおっしゃられて、針穴をとおしたとも伝えられる。このとき釈尊は阿那律に、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六つの実践(六波羅蜜)をお説きになられたという。
 カピラヴァスツの釈迦族の出身で、彼の父は斛飯王(こくばんおう)。一説には白飯王ともいう。いずれにしても釈尊の父である浄飯王(じょうばんおう)の弟であり、したがって、釈尊とは阿那律は従兄弟の関係にあたる。
 釈尊の入滅に際しては、阿難尊者に指示して、クシナガラのマッラ族に葬儀の用意をさせたと伝えられる。ヴァッジ族のヴェールヴァ林の竹林で亡くなった。(『起世経』十、『有部破僧事』二、『五分律』十五、『増一阿含経』三十八)

圓 祥宏(花園大学学生)

《法話》「阿那律尊者(アヌルダ)」……松岡 宗鶴(佐賀・松山寺住職)

「【解説】阿泥樓駄(あぬるだ)」

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 釈尊が横たわる宝床の手前で悲しみのあまりに気を失って倒れた阿難尊者を介抱しているのが阿泥樓駄である。阿泥樓駄は、釈迦十大弟子のひとりであり、「涅槃図」の上方で雲に乗った摩耶夫人を先導している阿那律尊者とは同一人物である。このように時間的に異なる二つの場面を一つの画の上に同時に描く手法を「異時同図法」という。二つの名は、インド人の名前である「アヌルッダ」という発音を漢字で表す際の標記の違いにすぎないが、習慣として、阿難尊者を介抱している阿那律尊者は、阿泥樓駄尊者と標記する。(※阿那律の項を参照)  釈尊の入滅に際し、阿泥樓駄尊者は「大覚世尊、已(すで)に涅槃に入りたまえり」と告げた。これを聞いた阿難尊者は悲しみのあまりに気を失い、倒れてしまった。阿泥樓駄尊者は清冷なる水を阿難の顔に注いで扶け起こし、次のように言った。「阿難よ、たとえ仏が涅槃されても、この上ない御仏の教えはこの世にとどまって、ひとびとの依り所となるであろう。わたしたちは精進して、御釈迦様が遺されたこの上ないみ教えを人々に伝え、衆生を救い、如来の恩に報いようではないか」と。これによって、阿難尊者はようやく正気に戻ることができたという(『大般涅槃経後分』)。

圓 祥宏(花園大学学生)

《法話》「阿那律尊者(アヌルダ)」……松岡 宗鶴(佐賀・松山寺住職)

「【解説】摩耶夫人」

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 摩耶夫人(マーヤーMāyā)は釈尊の生母。コーリヤ族の出身で、カピラヴァストゥ国の城主・サキャ族(釈迦族)の浄飯王(シュッドーダナ)に嫁ぎ、釈尊を出産した。
 「涅槃図」では雲に乗って天上より降りてくる姿で描かれている。後に仏陀となるゴータマ・シッダールタ王子を出産後、7日目にこの世を去ったが、釈尊を生んだ功徳により、天上の忉利天に生まれ変わった。忉利天とは、須彌山の真上の八万由旬(約904,000km)の処にあり、帝釈天の住所でもある。
 『方広大荘厳経』などの説によれば、摩耶夫人は六本の牙をもつ白象が胎内に入る夢をみてシッダールタを身ごもった。そのころの習慣として出産のために故郷に帰る途中、リンビニー(現在のネパールの南部、インド国境に近いタライ平原にある小さな村)の花園で、樹(北伝では無憂樹、南伝では娑羅双樹)に咲く花を手折ろうと手を伸ばしたとき、右脇からシッダールタを生んだ。
 脇から子を生むというのは、いかにも奇異に感じるが、これはインドの古代神話『リグ・ヴェーダ』に、神々が祭祀を行うにあたって世界の最初に存在したとされるプルシャ(原人)を切り分けたとき、口はバラモン(聖職者・僧侶階級)に、両腕はクシャトリアリア(王族・武人階級)に、両腿はヴァイシャ(庶民・商人)に、両足はシュードラ(隷属民)になったという話に基づくと考えられている。
 釈尊にとって、自分を生んだのち間も無く母を亡くしたことへの悲しみはいかほどであっただろうか。おそらく出家の動機にも繋がったものと推測される。『摩訶摩耶経』によると、釈尊は悟りを開いた後、母が転生した忉利天へ昇り、母に悟りを報告し、母のために法を説いたという。
 なお、聖人の母が神聖視され、多くの伝説を生み、後の人々から信仰を集めることは、キリストの母・聖母マリアにも共通することがしばしば指摘されるが、摩耶夫人もまた、多くの人々から尊崇され、今日では安産や子育て、婦人病などのご利益をもたらすとも言われて、信仰の対象となっている。

奥田 智勝(花園禅塾卒塾生・龍谷大学学生)

《法話》「摩耶夫人」……竺 泰道(大分・法雲寺住職)

「【解説】観世音菩薩」

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 観世音菩薩は、略して観音という。智慧の文殊、願行の普賢と共に、慈悲の観音として、代表的菩薩の一つ。
 大いなる慈悲をもち、すべての生きとし生けるものの為に三十三の化身となって十方世界にその身を現し、偉大なる神通力であらゆる苦悩から人々を救い出す菩薩として、インド・中国・日本において古くから広く信仰を集めている。その様相に応じて、十一面、千手千眼、不空羂索、准胝、如意輪、馬頭など様々な変化(へんげ)観音があり、六観音、七観音、十五観音、二十五観音、三十三観音が数えられる。
 サンスクリット語で、アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokitesvara)。ava(遍く)lokita(見る)isvara(自在)の三つの語で出来た合成語であり、『般若心経』などでは観自在菩薩と訳される。『妙法蓮華経』で「観世音菩薩」と訳されているのは、この菩薩が慈悲によって世の一切衆生の救いを求める「声」を「観」じて、ただちに救済することからきた意訳。数ある漢訳『法華経』の中で最古訳の『正法華経』では「光世音」と訳されている。それは原語のAvalokitesvaraの「ローキタ」の語根(loka)が「光」という意味をもっており、「アーローカ」(aloka)という語が「光明」と訳されることから来る。
 また、一切衆生を救済して慈悲を垂れることを本願とする。すべての人のこころから畏れを取り除くから、施無畏者とも呼ばれる。
 「観世音」の名は、『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品、略称「観音経」によって知られている。そこには、無尽意菩薩が仏に観世音菩薩と名付けた理由を問うているシーンがある。仏曰く、「もし量り知れないおびただしい数の生命がさまざまな苦悩を受けたとき、観世音の名を聞き、一心にその名を呼べば、かの観音はすぐにその声を聞いて一人残らずその苦悩から抜け出させ、観世音の名を忘れず唱えることを怠らなければ、その者は大火に包まれても焼かれず、大水に流されてもたちまち浅瀬を見出し、また、財宝を求めて大海に出た時に、黒風がその船に吹きつけ羅殺鬼の国に流れ着かせても、船人の中に一人でも観世音の名を唱える者がいたならば、船内のすべての人は菩薩の人智を超越した力に基づくものである。このような由縁から観世音菩薩と名付けた」と書かれている。
 『華厳経』では南海に浮かぶ補陀落山(普陀山)に住むとされる。また、『無量寿経』では西方極楽浄土で阿弥陀如来の脇侍として、勢至菩薩ともに弥陀の教化を扶けると説かれている。

五葉 鉄(花園大学学生)

《法話》「観世音菩薩」……桐野 祥陽(京都・大泉寺住職)

「【解説】耆婆(ぎば)」

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 サンスクリットではジーヴァカ。耆婆伽、耆城、時縛迦などとも音写され、命、固活、更活、能活と意訳される。「いのちある者」の意である。
 実際に居た王舎城の良医で、釈尊の主治医。耆婆大臣とも称される。
 耆婆は、生まれたときは針筒と薬嚢を持っていたと伝えられる。西北インド、現在のパキスタンに位置する徳叉尸羅(タクシャシーラ・タキシラ)国へ留学し、ピンガラという医師に七年間師事して当時の進んだ医術を修めた。その後、マガダ国の王舎城へ戻り、医師として活躍。歴史に残る名医であり、医師の祖とも言われ、また長寿の神として崇められている。現在に言う小児科医が専門であったようであるが、成人の頭部外科手術も手掛けて成功していることが伝えられている。仏典にも、嫉妬した提婆達多により釈尊目がけて落された岩によって釈尊が負傷したときも、耆婆が治療に当たっていることが記されている。
 耆婆は、マガダ国のビンビサーラ王の子であるが、遊女との間に生まれた子であったため、正室の子である二歳年下の異母弟・阿闍世(アジャータシャトル)が王位に就き、自らは医師の道を貫いた。のちに仏法に帰依することを阿闍世王に薦めたのは耆婆である。 南伝仏教の伝承では、王舎城の遊女の子であったが、生まれてすぐに捨てられたところ、無畏王子に拾われ、「まだ生きている」と言ったことから、ジーヴァカ(命あるもの)と名づけられたという。

土居 祐人(花園大学学生)

《法話》「耆婆(ぎば)」……華山 泰玄(岡山・少林寺住職)

「【解説】阿難尊者」

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 梵語でアーナンダ(Ananda)といい、阿難陀と音写する。阿難はその略名。歓喜・慶喜・無来という意味である。
 阿難尊者は、釈迦十大弟子のひとり。出家後、釈尊の侍者として25年間の長きにわたり釈尊のそばでお仕えした方であり、釈尊から最も多くの教えを聴き、またよく記憶していたことから、多聞第一と称される。そのため、多くの経典に彼の名前が見られる。
 「涅槃図」では、釈尊の入滅の知らせに接し、宝床の手前で悲しみのあまりに気を失い、死人のように俯せに倒れている様で描かれている。眉目秀麗で穏和な性格であったと伝えられ、涅槃図に描かれる際にも美しい顔立ちで表現される。
 阿難は、釈尊の在世中、釈尊の養母である摩訶闍波提(まかはじゃはだい=マハー・プラジャパティ)たちが釈尊に出家を願い出た際、なかなか女人の出家が認めなかったところを、彼の執り成しによって、尼僧(比丘尼)教団が誕生したことで知られている。
 釈尊が入滅した後は、500人の弟子たちが集まって、釈尊の教えが失われないように、その教えを確認しあう結集(けつじゅう)が行われた。しかし、最初はその集まりのメンバーに阿難は選ばれていなかった。なぜなら、その時点で阿難は未だ悟りを得ていなかったからである。煩悩を滅し尽くしていない者が、この重要な結集に参加して釈尊の教えを皆に披露すれば、誤解が混ざって正しい教えが伝わらなくなる虞れがあるからである。しかし、阿難は前述の如く、釈尊の側近として影のごとく長年付き従い、最も多くその教えを聴いて記憶しており、この結集にはなくてはならない存在であるとして、最終的にメンバーに加えられたという。阿難はその後、発奮して修行を積み、悟りを得た。一説によると、説法のために時間をとられていた阿難の様子を見かねた得道の僧(摩訶迦葉尊者とも)によって、「禅定を修すれば悟りを得られるが、多くの説法をして何になるのか」と諫められ、勇猛精進して修行を積み、あるとき疲れて横になろうと頭を枕に着けた瞬間、豁然として大悟したとも伝えられている。
 阿難尊者は、釈尊がお悟りを開かれた後の生まれで、釈尊の父である浄飯王の弟・甘露飯王の子であると伝えられるから、釈尊と阿難尊者は、従兄弟関係にある。『大智度論』によると、浄飯王が阿難の誕生をことのほか喜んだことから、歓喜を意味する「アーナンダ」と名づけられたという。

北政 十郎(花園大学学生)

《法話》「阿難尊者(アーナンダ)1」……小澤 泰崇(山梨・義雲院副住職)
《法話》「阿難尊者(アーナンダ)2」……木村 宗凰(岐阜・觀音寺副住職)

「【解説】迦葉童子」

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 迦葉童子は、迦葉童子菩薩とも呼ばれる。「涅槃図」では、たいてい宝床の手前、釈尊が横たわるすぐ傍に侍り、双髻の童子の姿で描かれている。寺で僧侶の身の回りの世話をする在家信徒のことも童子というが、この場合は十二歳ぐらいの実際の童子が想定されている。
 迦葉という名の佛弟子は多く、なかでも釈迦十大弟子のひとりに摩訶迦葉尊者がおられ、とくに禅門では釈尊の法を嗣がれた方として「拈華微笑」の話でよく知られているが、「涅槃図」に描かれている迦葉童子は、この摩訶迦葉尊者とは別人。
 迦葉童子は、のちに『涅槃経』としてまとめられることとなる釈尊の説法の会座において、対告衆(聴衆の代表者として教えを告げられる者)となった人物であり、この『涅槃経』の内容を聴いて悟りをひらいたと伝えられている。
 『涅槃経』は釈尊最晩年の教えであり、一代の説法の集大成として、宗派を超えて尊重されている経典である。

谷藤 禅興(花園大学学生)

※ちなみに世尊涅槃の時、摩訶迦葉尊者は遠方を多くの弟子たちと遊行中であった。

「【解説】帝釈天」

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 梵名シャクロー・デーバーナーム・インドラ。「インドラ」は天守、帝、「シャクロー」は勇力の意味で、この部分を「釈」と音写して帝釈天という。また釈迦堤婆因陀羅、釈堤桓因とも呼ばれる。
 もとは、古代インドの神話(ヴェーダ神話)における天界の軍神・インドラのこと。
 インドラは二頭立ての黄金の戦車か、または象に乗り、金剛杵という武器をとって毒龍ヴリトラと戦い、強力な阿修羅の軍を退けたという。また雨を降らして地上に恵みを与え、大地を潤す豊穣神としても崇拝されていた。後に仏法に帰依し、お釈迦様の修行試合の守護神となり、慈悲深く柔和な性質も持つようになる。
 須弥山の上にあるとされる三十三天のうち、もっとも高い位置づけをされている忉利天の主であり、そこに喜見城をかまえ、地界を支配するとされている。 
 早い時期から梵天と一対で表されることが多く、また四天王の一人としてもよく知られている。のちに十二天のひとりとなり、東方を守護する神として崇拝されている。
 甲冑を身につけ、その上から長袂衣を着し、着柄香炉や唐扇をもつ姿で描かれるが、密教化されると、一面三目二臂で独鈷杵、三鈷杵を持つ立像、または白象に乗り半迦踏む姿で表されるようになる。これを一般的に帝釈天騎象像と呼ばれている。
 国家や個人の災難から護ってくれると信じられており、多くの人々の崇敬を受けている。

永田 陽光(花園大学学生)

《法話》「帝釈天」……木村 宗凰(広島・觀音寺副住職)

「【解説】難陀龍王・跋難陀龍王」

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 それぞれ仏法を守護する八大龍王の一。雲を呼び雨を起こす蛇形の鬼類。
 龍が巻き付いた姿で、図の右側に描かれることが多い。

 諸経典に出場する八大龍王は、仏法を守護する者の代表としてあげられる「天竜八部衆」(天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩呼洛伽)の中の龍の八王。インドでは龍はコブラのイメージで捉えられるが、龍(ナーガ)族という一種族を指すと考える説もある。中国では神獣として皇帝の権力の象徴とされる。西洋のドラゴンは羽根をもち、悪者として説話に登場するが、東洋では善神であり、羽根が無くとも天空を飛翔することができる(「応」と呼ばれる下等な龍は羽根が無ければ飛べない)。
 龍は、そもそも水と深い関係があり、水の恵みをもたらす神として崇拝されている。そのことから、八大龍王は日本では主に雨乞の神として崇められ、中でも娑羯羅龍王が雨乞の神として特別に取り上げられることが多い。禅寺でも、伽藍の守護神として、朝課の後に八大龍王の名を唱えている。
 以下、難陀・跋難陀とともに、八大龍王に加えられる他の龍王の説明を加えておく。


1.難陀龍王(なんだりゅうおう;アーナンダ・ナーガ・ラージャ;Ānanda nāga rāja)
 八大龍王の中でも筆頭。難陀(Ānanda)とは歓喜の意。海洋の主。経典では、頭上に9匹の龍を戴き、右手に剣をもち、左手を腰に位置するとされるが、「涅槃図」では人物に龍が巻きつく姿で描かれることが多い。『不空羂索神変真言経』第十六「広博摩尼香王品」によると、跋難陀龍王の兄であり、同じく八大龍王の一である娑伽羅(サーガラ:大海)龍王と戦ったことがある。

2.跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう;ウパナンダ・ナーガ・ラージャ;Upananda nāga rāja)
 跋難陀(Upananda)は亜歓喜と訳される。難陀龍王の弟。経典では、頭上に7匹の龍を戴き、右手に剣、左手は空中に位置するとされるが、「涅槃図」では難陀龍王と同様、あるいは鱗を衣の下から覗かせていることがある。兄の難陀龍王とともに摩竭陀(マガダ)国を保護り、飢饉を退けた。また、釈尊が降誕されたとき、雨を降らして灌いだとされて、潅仏会の起源となっている。釈尊の説法の会座には必ず参じた。

3.娑羯羅龍王(しゃからりゅうおう;サーガラ・ナーガ・ラージャ;sāgara nāga rāja)
 娑伽羅(娑伽羅、沙掲羅;sāgara)は大海と訳される。天海に住すとされ、また、龍宮の王ともされ、大海竜王ともいう。日本では主に雨乞の本尊とされる。『法華経』提婆達多品に説かれる「龍女成仏」の話で知られる八歳の龍女は、この龍王の第三王女で、「善女(如)龍王」と呼ばれる。禅寺の韋駄天諷経で八大龍王の名を唱えるとき、最後に「善女龍王」の名を加えるのは、女人の成仏を肯定していることを示しているといえよう。なお、弘法大師空海が命名した清瀧権現も、唐から随ってやって来た娑伽羅龍王の娘。

4.和修吉龍王(わしゅきつりゅうおう;ヴァースキ・ナーガ・ラージャ;Vāsuki nāga rāja)
 和修吉(婆素鶏;Vāsuki)の意味は、宝の意。「宝有」とも「宝称」とも称される。須弥山を守護し、小さな龍を捕って食べる。
 経典では多くの頭をもつとされ、陽数の極である「九」で象徴して、九頭龍と称される。日本では、「九頭龍王(くずりゅうおう)」、「九頭龍大神」、九頭龍権現と称され、水中に住する龍神として、特に信仰されている。

5.徳叉迦龍王(とくしゃかりゅうおう;タクシャカ・ナーガ・ラージャ;Taksaka nāga rāja)
 徳叉迦(Taksaka)とは、多舌の意。視毒とも称される。すなわち、この龍が怒って人を凝視すると、その人は絶命する。『金光明経』によると、七面天女は、この龍王の娘とされる。

6.阿那婆達多龍王(あなばだったりゅうおう;アナヴァタプタ・ナーガ・ラージャ;Anavatapta nāga rāja)
 阿那婆達多(阿耨達;Anavatapta)とは、清涼、無熱悩と訳される。雪山(ヒマラヤ)の北辺にあるという伝説の池・阿耨達池(無熱悩池)にある五柱堂に住する。阿那婆達多龍王は、この池から四方に大河を生み、閻浮提(えんぶだい)、すなわち大陸を潤す。

7.摩那斯龍王(まなしりゅうおう;マナスヴィン・ナーガ・ラージャ;Manasvin nāga rāja)
 摩那斯(Manasvin)は大身、大力と訳される。阿修羅が喜見城を攻め、海水で侵したとき、大身をくねらせて、その海水を押し戻したという神話がある。

8.優鉢羅龍王(うはらりゅうおう;ウッパラカ;Utpalaka nāga rāja)
 優鉢羅(Utpala)とは青い蓮の意。青蓮華の生ずる池に住むことから青蓮華龍王ともいう。青蓮華は仏典では優鉢羅華といい、清浄なるものの例えとされる。

《法話》難陀龍王・跋難陀龍王……桐野 祥陽(京都・大泉寺住職)

「【解説】阿修羅」

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 三面六臂の姿をした仏法の守護神で、八部衆の一に数えられる。
 サンスクリットの「アースラ」(asura)が原語。もとはインドの古代神話に出てくる神であり、戦闘を司る。身体は赤色、または青黒色で、怒髪天を突き、裸で忿怒の形相をしている。
 「涅槃図」では、宝床の後方、中央あたりに位置することが多いが、左側に描かれることもある。
 古くは、古代ペルシアにおけるゾロアスター教の根本聖典『アヴェスター』に最高神として「アフラ・マズダー」(Ahura Mazdā;智慧ある神)の名で表われる。それが、アーリア人によってインドに伝承され、アースラと呼ばれるようになった。当初は、生命や生気を司る善神、太陽神、もしくは火を司る神として信仰されていた。最近の研究では、大日如来の原点という説もある。古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』では、「最勝なる性愛」という意味ももっていた。しかし、アスラの娘を強引に奪った力の神・インドラ(帝釈天)に激しい怒りを抱き、戦闘を挑んでそれが大規模な戦争へと発展。結局敗北するが戦争は何度も行われたと、古代インド神話は伝えている。
 奈良・興福寺や京都・三十三間堂の阿修羅像は、憂いのある華奢で可憐な少年の風貌で表現されているが、これは、のちに仏法に帰依し、帝釈天との大戦争があまりに凄惨を極めたことを懺悔している姿であると言われる。

浅野 大智(花園大学学生)

《法話》阿修羅……華山 泰玄(岡山・少林寺住職)

「【解説】執金剛神・密迹金剛神」

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 執金剛神と密迹金剛神は、もともと仏法を守護する一体の神の分身で、寺院の山門などに安置されるる仁王のこと。しばしば、執金剛神は金剛力士、密迹金剛は密迹力士とも呼ばれ、日本ではそれぞれ阿形と吽形で造像される。
 サンスクリット語では、密迹金剛はグヒヤパーダ・ヴァジュラ、執金剛はヴァジュラ・ダラという。グヒヤパーダと(密迹)は、仏の大法を聞くということ、ヴァジュラ(金剛)とは堅固不壊、ダイヤモンドのように強力な光を放つものの意である。ヴァジュラ・ダラとは、金剛杵を持つ者の意である。金剛杵とは、仏敵を退散させる武器であり、煩悩を打ち砕く菩提心の象徴でもある。もともとバラモン教の主要神であるインドラ(帝釈天)の所持する武器としても知られ、密教では法具として用いられる。
 つまりこの二人は、金剛杵という武器を持ち仏や仏法などを脅かす外敵から守り、戦う役目を担う神である。そのため、東大寺の阿形像、吽形像は非常に恐ろしい顔をしており、身体も仏教に害を与える外敵と戦うためにたくましく鍛えられており、今にも飛び出していきそうな気配をまとっているのである。
 また密教の第二祖とされている金剛薩埵(ヴァジュラ・サットヴァ)も、金剛杵をもっている。サットヴァとは勇猛果敢なこと、という意味である。金剛薩埵は、大日如来の教えを受けた密教第二祖として崇拝され、大日如来と衆生をつなぐ大切な位置にある。執金剛と金剛薩埵、違う神のようであるが、実は起源をたどると同一神格である。密教で取り入れられ、今も多くの寺院の門に、外敵をにらみつけるように作られた執金剛、密迹金剛。彼らの持つ力強さと、煩悩をも打ち砕くその金剛杵、多少神話のような部分もあるかもしれないが、彼らの力を借り、仏法の道を説きすすめてゆきたいものだ。

林 義徳(花園大学学生)

「【解説】迦樓羅」

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 迦楼羅は、サンスクリットの「ガルーダ」の音写。もとインド神話の鳥神であるが、仏教に取り込まれ、仏法の守護神となり、天龍八部衆の一に数えられる。金翅鳥(こんしちょう)・食吐悲苦鳥(じきとひくちょう)と漢訳される。
 「涅槃図」では宝床の右側後方に描かれることが多く、鳥の顔をしているか、鳥の冠を被った姿で描かれる。
 鳥頭人身で、翼をもち、横笛や篳篥などの楽器を吹く姿で描かれ、あるいは造像される。また、龍や毒蛇を常食とすることから、龍や蛇を踏みつけた姿で示されることもある。口からは火を吐き、赤い翼を広げると336万里(1344万km)にも達するという。
 仏教では、毒蛇から人を守り、龍や蛇を食らうように衆生の煩悩を食らう神とされ、梵天や大自在天、あるいは文殊菩薩の化身ともされる。また、不動明王の背負う焔を「迦楼羅焔」(かるらえん)というが、これは迦楼羅が口から吐く焔、あるいは迦楼羅そのものであるとされる。
 なお、インドを中心として多くの信者をもつ土着宗教のヒンドゥーでは、迦楼羅を特に信奉する人も多く、かつてインドネシア共和国では国鳥とされ、航空会社の社名にもなっているほど、東南アジアでは馴染みのある神である。

浅野 大智(花園大学学生)

《法話》「迦楼羅・摩睺羅 ―チームワーク―」……小澤 泰崇(山梨・義雲院副住職)

「【解説】緊那羅(きんなら)」

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 インド神話における半神半人の神。サンスクリット語のキンナラの音写で、人のようで人ではない、という意味から「人非人」とか「疑人」と訳される。ヒマラヤのカイラス山上にあるとされる天界で帝釈天に仕え、ガンダルヴァ(乾闥婆)と共によく音楽を演奏し舞を舞い、美しい歌声をもつことから、歌神・楽神と称される。天龍八部衆のうちの一で、竜や阿修羅と共に仏の説法を聴き、仏法に帰依してこれを守護する神となり、大乗諸経典中によくその名があらわれる。
 その姿は、男は馬頭人身、または人頭馬神。美声でよく歌う。女は人間の女性によく似ていて、天女のようによく舞う。釈尊の前生譚『ジャータカ』では、人の頭に鳥の体という姿であるという。
 「涅槃図」では、緊那羅は象の冠を被る人の姿で描かれている。釈尊が横たわる宝床の上部や、左側または右側に位置することもあり、場所は一定しない。象の冠をつけているのが特徴。

石井 湧達(花園大学学生)

「【解説】摩睺羅」

 摩睺羅は、摩睺羅伽ともいう。サンスクリット語の「マホーラガ」(大蛇の意)の音写。天龍八部衆の一。インド神話に起源をもつ蛇の精霊で、後に仏教にとりいれられた。人身蛇首ともいわれ、また蛇のように足が無く腹で移動する地龍ともされる。
 ナーガ(頭頂に5匹の蛇を飾る人間、下半身が蛇)が、とくにコブラを神格化したものであるのに対し、マホーラガはニシキヘビなどを神格化したものといわれている。
 「涅槃図」では、頭に蛇または龍の冠をつけた姿で描かれている。

石井 湧達(花園大学学生)

《法話》「迦楼羅・摩睺羅 ―チームワーク―」……小澤 泰崇(山梨・義雲院副住職)

「【解説】純陀(チュンダ)」

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 サンスクリット「Chunda」の音写で、「准陀」、「淳陀」とも。妙義、稚小と漢訳される。鍛冶屋の子で、釈尊に最後の供養をした人。その供養した食物がもとで釈尊は発病し、入滅するに至った。釈尊は、周囲から純陀が批難されることを配慮して、その供養を最上の供養であると述べた。

《法話》「純陀(チュンダ)――供養したのはお米?きのこ?豚肉?」……清水 圓俊(福岡・修林庵住職)

「【解説】速疾鬼」

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 「涅槃図」で鬼の姿で描かれているのが速疾鬼。悪鬼のことであり、智顗の『法華文句』や元照の『四分律行事鈔資持記 』などによると「羅刹(らせつ)」の異称とされる。捷疾鬼ともいう。慧琳の『一切経音義』によると、羅刹は人の血肉を喰らい、あるいは空を飛び、あるいは地を行くこと極めて捷疾であり、畏るべきであることから、この名があり、「可畏」とも称される。多くの人を殺し、男は容姿が醜悪で凶暴、女は美しく人の精気を奪う。破壊と滅亡を司る鬼神。地獄の獄卒(地獄卒)を指すこともある。また、夜叉を速疾鬼と称することもある。

 その起源は、インド古代神話に登場し、ヒンドゥーでも説かれる鬼神ラークシャサ。夜叉と同様に、アーリア人が侵入する以前からインドにあった自然界に棲み人を惑わし喰らう精霊のことであった。仏教が広く伝播した後は、仏法を守護する鬼神と考えられ、夜叉とともに四天王の一である多聞天(毘沙門天)の眷属として位置付けられている。

 なお、唐の若那跋陀羅訳『大般涅槃經後分』(大正蔵12.910a)には、釈尊の滅後、遺体を荼毘にふした際、帝釈天が釈尊の上頷の一対の歯(仏牙舎利)を取り出し、天上に仏塔を建てて供養しようとしたところ、姿を隠して帝釈天についてきた二人の捷疾羅刹がその仏牙舎利を奪って逃げたという話が説かれている。その後、仏舎利信仰に付随して、この捷疾羅刹を足の速い韋駄天が追い詰め、仏牙舎利を取り戻したという俗説ができた。

 日本でも、『太平記』(巻第八「谷堂炎上事」五七)や、春屋妙葩の『知覚普明国師語録』、『寂照堂谷響集』などでは、日本に仏牙舎利がもたらされた経緯を語る際に、捷疾羅刹を追い詰めたのは韋駄天ということになっている。こういった舎利信仰の素材がもとになり、謡曲「舎利」では、京都東山にある泉涌寺の舍利殿に納められている仏牙舎利を狙って足疾鬼(速疾鬼)が現れ、舎利殿に飛び上がって舎利を奪い、虚空に飛び去ったところ、舍利殿を守護する韋駄天像が動き出し、これを追いつめ仏舎利を取りかえすという話が作られる。この話は能の題材ともなり、よく知られている。ちなみに、韋駄天はもともと寺院の伽藍を守護する神として、庫裡に祀られているが、捷疾羅刹をも凌ぐ極めて速く走る神であり、盗難除けの神としても尊崇されるようになった。

《法話》「速疾鬼」……清水 円俊(福岡・修林庵住職)

「【解説】老女」

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 釈尊の足を擦りながら慟哭している老女は、釈尊が最後の夏安居を過ごされた毘舎離(バイシャリー)城の「欝婆尸女(うつばしにょ)」という名の優婆夷(うばい;在家の戒を受けた女性信者)であるとされ、年齢は百歳、あるいは百二十歳ともいわれる。

 欝婆尸女とは、『一切経音義』によると「大自在」の意。『大般涅槃経』には、釈尊の涅槃に際して集まってきた多くの人々や神々などの中に、女性たちの名があげられており、その中に欝婆尸女の名もみられる(「復た百億恒河沙天の諸娙女有り。藍婆女、欝婆尸女、帝路沾女、毘舍佉女を上首と為す」)。
 足を拝するのは、貴人に対する最高の礼。四十五年間の布教の旅を歩き続けた釈尊の御足を一心に擦り、感謝と労りと悲しみの涙を流している。『涅槃像勧喩録』では、摩訶迦葉尊者が荼毘にふす前の釈尊の御足をみたとき、釈尊の御足には老女の涙の跡が消えないで残っていたという。

 ちなみに、釈迦十大弟子の一人に数えられる阿難尊者は、女人が出家することの許しを釈尊に請うてとりなしたことで知られるが、釈尊の入滅に際しても、最初に女性たちの礼拝を許した。そのことが、滅後の結集のとき摩訶迦葉尊者が最後まで阿難の参加を保留した理由の一つともなっている。

 なお、涅槃図によっては、老女ではなく摩訶迦葉尊者、羅漢、あるいは在家の翁が描かれていることもある。在家の翁の場合は、釈尊の主治医で医学の祖と称される耆婆と混同され、釈尊の脈をとっている様子であると説明されることもある。

《法話》「老女」……福田 宗伸(岐阜・通源寺住職)

「【解説】目連尊者」

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 目揵連の略称で、サンスクリットでは、マウドガリャーヤナ、モッガラーナ。讃誦という意味。釈迦十大弟子の一人に数えられ、神通第一(神通力が最も勝れた人)と称される。
 摩竭陀(マガダ)国の王舎城外で婆羅門(バラモン)の家に生まれた。隣村ナーラダで婆羅門の家に生まれ、同じく十大弟子の一人に数えられる舍利弗尊者とは、幼いころより親交があり、人々が遊び戯れている姿を見て無常を感じ、ともに出家した。

 当初、500人の仲間とともに、六師外道(仏教以外の六人の哲学者)の一人であるサンジャヤ・ベーラッティプッタに弟子入りをした。サンジャヤは、哲学用語でいう懷疑論者であり、基本的原理や認識、常識とされるような共通概念に対して、その普遍性や客観性を検討し、根拠をもたない判断を排除して明確な判断を避ける、一つの高度な哲学体系を説いていた。しかし、目連と舍利弗はこれに満足せず、あるとき、舎利弗が阿説示(アッサジ)から釈尊の教えを聞いて、これを目連に伝えたことを機に、多くの同門を引き連れて釈尊のもとに弟子入りした。後に目連と舍利弗は、阿羅漢果(初期仏教が定める最高のさとり)を得て、釈尊の弟子の中でも最も親任を得る高弟となった。

 目連尊者は、施食会の起源となる故事を残している。『盂蘭盆経』によると、ある日、神通力によって、亡き母の死後の行方を探っていたとき、母がわけあって餓鬼道に堕ちていることを知る。目連は釈尊にこのことを話し、母を救う方法を尋ねたところ、釈尊は「雨安居(うあんご)が終る日(7月15日)に、衆僧に飲食百味を供養すれば、母は救われるであろう」と説かれ、目連はこの教えに従って衆僧を供養したところ、その功徳と衆僧の神力により、目連の母は餓鬼道の苦しみ解放されて、天界に上ったという。

 ちなみに、施餓鬼の起源は、『救抜焔口陀羅尼経』に説かれる阿難尊者の故事によるもの。すなわち、あるとき阿難が坐禅をしていると、目の前に焔口(えんく)という餓鬼が現れ、「お前は三日後に死に、醜い餓鬼に生まれ変わるであろう」と言った。そこで阿難はこれを免れる手段を餓鬼に問うたところ、餓鬼は「我々のように餓鬼道にいる衆生をはじめとして、あらゆる苦しみを受けている衆生に飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、自分も餓鬼道の苦しみから脱することができ、お前の寿命も延びるだろう」と言った。しかし、苦しむ全ての衆生に施すことは不可能である。そこで、阿難は釈尊にこのことを話したところ、釈尊は『加持飲食陀羅尼』の神通力により、供養した飲食は無量の数となって一切の餓鬼の空腹を満たし、無量無数の苦難を救って、施主の寿命もまた延び、その功徳によってついには仏道を証得することができることを説いた。阿難は教えられたとおりにすると、阿難の延命したという。
 これら目連と阿難の故事が、現在、盂蘭盆(お盆)に行う施餓鬼の起源となっている。

 目連は、神通力に勝れ、釈尊の説法を妨げたり、その身に危害を加えようとする邪魔外道(異端者)、鬼神や毒龍などを降伏、追放した。そのため、少なからず恨みをかうこともあり、異教徒からの迫害を受けることもあり、ときに暗殺されかかったこともあった。竹林外道(執杖梵士)から暴力を受けて瀕死の状態になったとき、親友の舍利弗は、「一緒に出家し、仏弟子となって証悟したのだから、滅するときも一緒だ」と言ったという。
 目連と舍利弗は、釈尊の法を嗣ぐことのできる弟子と目されていたが、釈尊よりもさきに遷化した。
 世界文化遺産に指定されているサーンチー(デリーの南方約 580km、マディヤ・プラデシュ州)の第三ストゥーパは、舍利弗と目連の舎利(遺骨)がおさめられた仏塔である。現在、彼らの舎利は、近くの丘の上のビハーラに祀られている。

《法話》目連尊者……豊岳 慈明(岡山・豊昌寺住職)