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「〔法話〕死=志」

 二月十五日は釈尊の涅槃会である。鍛冶工の子、チュンダが供養した、きのこの入った食事で中毒を起こし、入滅された。病気になられた釈尊はチュンダが悔悟の念で苦しんだり、他の弟子たちに厳しく責められていないか、と心配された。そこで説法された。
 「私はこの世に生を受けてから、二つのすばらしい供養の食物をいただいた。苦行をしたが何も得られず、山を降りて、スジャータという村の娘にもらった乳粥がひとつ。これで身体を癒し、悟ることができた。もうひとつはチュンダの食物で、煩悩の残りの無い涅槃の境地に入ることができる。この二つの供養の食物はまさにひとしい果報がある。チュンダはよき功徳を積んだのだ」(『大パリニッバーナ経』要約)。釈尊のこの言葉を耳にしたチュンダの感激は如何ばかりか。
 拙寺の近くに肛門科の病院がある。院長の三枝先生が大変印象深い話をされたことがあった。直腸癌で助からない重病人は二種類あるという。ひとりはこんな病気なのに、よくあれだけ明るくって、看護婦さんにも「有難う」と微笑する、心が落ち着いている患者。もうひとりは聞くに耐えられないような愚痴を言い、看護婦さんを困らせる患者である。どうしてこんなに違うのか、長い間、観察してきた。静かに死を迎える、安らかな患者は、人生を一生懸命生きただけでなく他人のために何か、尽くしてきた人が多い。反対にいらだち、人を困らせる患者はなんとなく生きてきた人、自分を育てることを忘れてきた人が多いと。
 聖隷三方原病院のホスピス病棟所長、原義雄先生は、「死に向かって、自分が自分を整える。自分が描いた理想的な自分に自分を近づけていくこと、自己実現ということが死の意味だ」と語っている。死は耐えがたく辛い。しかし死があるからこそ、いつ死んでも後悔のない人生を送れるよう、自分を磨き向上させる誓願が求められる。死=志なのだ。

藤原 東演(静岡・宝泰寺住職)