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「〔法話〕敵は煩悩地にあり」

 釈尊は「人生は苦なり」と喝破されているが、確かに人生における苦悩は、絶え間なく続く。その中で一番大きなウエートを占める苦は、人間関係におけるそれではなかろうか。老、病、死の苦は、生まれたかぎり誰れしもが、いずれ受けねばならぬ根本苦である。しかし日頃の人間関係が悪いと、苦は増幅して二重の苦となって迫る。周囲の人びとが懇ろに世話や看病してくれると、心も安らぎ、感謝の念も起こるが、逆だと、不平がつのり、老病の苦もさることながら、その方の苦で堪えられなくなる。
 自分を含めて世の人びとの様子を見ていると、寄るとさわると、他人(ひと)の悪口と自己主張の一点張り。悪口を伝え聞いた方は、これに執われ悩み苦しみ、また怨む。ことに当って先ず気にするのは他人の目。田舎の青年は他人の目がうるさいと都会に逃げる。やがて職場の人間関係で悩み、そこがいやになる。国際場裡においても、国同士の争いは、天災地変を遙かに上まわる残忍さで悲惨この上ない様相を呈する。
 こうみてくると、人間を苦しめるものは、人間以外の何ものでもない。動物の世界で同族同士苦しめ合うことは、そうざらにはあるまい。
 釈尊は、今のこの苦は結果であって、その原因は全て、過去の煩悩による利己的な行為や言葉や思いである。従ってこれらを消滅しなければ真の安楽は得られない。そのためには、因果の道理に適った正しい生活をしなければならないと説かれている。この教えが初転法輪といわれる釈尊最初のお説法である。その後四十九年に及ぶご説法は、みなこの教えの敷衍であったのである。
 そして最後のご説法「遺教経」の場において、多くのみ弟子がこの法を信じていることを確認して入滅された。なお、この経の中で「乱心戯論を捨離すべし」と勝手なおしゃべりを戒め、更に智慧(純粋ないのちの働きそのもの)の大切さを説かれ、正法を聞くことによって智慧に気づき、正法を思惟することによって智慧に目覚め、正法のままに生活することによって智慧を発見せよと示されている。この実践を忘れては仏教徒とはいえない。
 今月十五日は仏入涅槃の日(釈尊のご命日)である。先ず正法を聞こう。

中島義観(滋賀・多幸寺先住職)