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「〔法話〕お元気ですか」

 二月十五日は、お釈迦様の亡くなられた日で、多くのお寺で涅槃会(ねはんえ)の法要が行われます。ご本堂の正面に掛けられた涅槃図をご覧になられた方も多いと思います。
 沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で、今まさに亡くなろうとしているお釈迦様のまわりを、たくさんの菩薩、弟子たち、諸天を始め象や犬、蝶々、トンボ、はてはミミズにいたるまでが取り囲み、悲しんでいる様子が描かれています。
 この画は、「一切の世間において、生まれる者は皆死に帰る」と言うことを表しているのです。
 今、日本は長寿世界一であり、最も豊かな国の一つでもあります。
 WHO(世界保健機関)が昨年発表した、平均で何歳まで健康に生きられるかという「健康寿命」の統計でも日本は七十四・五歳で世界一でした。
 健康で長生きできることは喜ばしいことです。しかし、残念なことに私たちはいつ病気になるかも知れませんし、老いは一日一日確実に迫ってきます。そしていつかは寿命の尽きる日を迎えなければなりません。その用意は果たして出来ているでしょうか。
 私たちは色々な方の亡くなる場に会い、さまざまなお葬式に出会いますが、自分のお葬式はどんなものになるのか、などと考えることはほとんどありませんし、又、病気や怪我などで寝たきりになることについて考えることもありません。
 「寝たきりだけにはなりたくないなぁ」とは、よく聞く言葉ですが、ならないと言う保証は誰にもないのに「そんな縁起でもない」と、なったときのことはあえて考えないことにしています。それで良いのでしょうか。
 菩提和讃(ぼだいわさん)に「春は万(よろず)の種をまき秋の実りを待つのみか……」と、説かれているように春に種をまくとき、秋の収穫を自分の力で出来るつもりでいますが、果たして無事に実るでしょうか。立派に実ってもそのとき私たちは収穫に立ち会えるでしょうか。
 元気でいるときは、ある程度自分の望みをかなえることも出来ますし、自分の力で生きていけるような気がしていますが、いつまで続けられるでしょうか。
 私は、八十二歳になる母親と二人で暮らしていますが、その母が加齢と持病のため、少し日常生活が不自由になってきているのを見ていますと、私が八十二歳になったらとよく考えます。その頃は大勢の方のお世話になるしかないでしょうから、その場になって困らないように今から気をつけなければと思っています。そう思って、身の回りを見てみると、今でも大勢の方のお世話になっていることに驚きます。若さや健康、力を誇って気がついていないだけで、一人では生きていけないことを私自身が忘れていたのです。
 又、私は自分のお葬式のことを思います。決して豪華なお葬式は望みませんが、お参りにきて下さる方に心から惜しまれ、そして悲しんで頂けるようなそんなお葬式でありたいのです。しかし、私にその資格があるような生き方ができているでしょうか。
 今、日本では「自分らしく、自由に生きること」が一番大切だとされていますが、そのためには回りの人を押しのけるほどの気持ちと力が必要です。しかし、お互いにそうすることが現代のストレスとなり、争いの元となっているのではないでしょうか。いつかは、なくなるであろう力に頼ることが「自分らしく、自由に生きること」を難しくしているのです。
自分のお葬式のあり方を思うと、私たちは一人で生きているのではなく、大勢の人の中で生かされているのだと強く感じられます。
 涅槃図の前に立ちそんなことを考えていました。

奈良 空山(兵庫・印南寺住職)