« 《法話》耆婆(ぎば) | メイン | 《法話》目連尊者 »

「《法話》老女」

 涅槃に入られたお釈迦さまの足元にすがり、その御足をさすりつつ涙を流す老女がいます。貧しく供養する物が無い老女は、長年の行脚を支えられた足をいたわり、お釈迦さまを一心に思って涙するのです。
 この老女の姿を見ていると、ふと修行中に出会ったお婆さんの事を思い出します。お正月のこと、私は新年の御札を配っていました。その年は大雪で、大量に残る雪の中に草鞋を突っ込み歩いておりました。もう寒い冷たいは通り越してただただ痛いだけ。身を切るような寒さとはこのことか、と思い知りました。身体の先端から感覚がマヒして行きます。
 とあるお家を訪ねた時、応対に出られたのはお婆さんでした。新年の挨拶をし、かじかむ手でなんとか御札を渡します。受け取っていただき合掌をしました。その合掌の手を優しく包まれたのです。「こんな日の中、ご苦労さん、ご苦労さん」と私の手よりもずいぶん小さく細い手のひらで暖めようとさすってくれたのでした。「そんなこと、いいですよ」照れくさくてそう告げても、重ねられた小さな手が一心に、何度も何度も往復をします。冷え切っていた手に感じるお婆さんの暖かさが、そこから心の奥深くまで染み入るようでとても嬉しかった。あれからもう十年以上たちましたが、あの日の、私を包んだあの小さな手を今なお忘れられません。
 「唯だ一心即ちこれ仏なり」心そのままが仏であります。その心は一個人にとどまらず、全てを含む心。個に型にとらわれない心。「自なく、他なし」と垣根を取り払ったもの、柔軟な心が仏の心、私たちそのままの一心なのです。そんな偽りない心、真心は送られた者の心に溶け込み消えることはありません。
 お釈迦さまの足に落ちた老女の涙の跡は消えることなく残ったといいます。それを見た尊者たちは感じ入り皆、礼拝しました。

福田 宗伸(岐阜・通源寺住職)