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「【解説】阿難尊者」

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 梵語でアーナンダ(Ananda)といい、阿難陀と音写する。阿難はその略名。歓喜・慶喜・無来という意味である。
 阿難尊者は、釈迦十大弟子のひとり。出家後、釈尊の侍者として25年間の長きにわたり釈尊のそばでお仕えした方であり、釈尊から最も多くの教えを聴き、またよく記憶していたことから、多聞第一と称される。そのため、多くの経典に彼の名前が見られる。
 「涅槃図」では、釈尊の入滅の知らせに接し、宝床の手前で悲しみのあまりに気を失い、死人のように俯せに倒れている様で描かれている。眉目秀麗で穏和な性格であったと伝えられ、涅槃図に描かれる際にも美しい顔立ちで表現される。
 阿難は、釈尊の在世中、釈尊の養母である摩訶闍波提(まかはじゃはだい=マハー・プラジャパティ)たちが釈尊に出家を願い出た際、なかなか女人の出家が認めなかったところを、彼の執り成しによって、尼僧(比丘尼)教団が誕生したことで知られている。
 釈尊が入滅した後は、500人の弟子たちが集まって、釈尊の教えが失われないように、その教えを確認しあう結集(けつじゅう)が行われた。しかし、最初はその集まりのメンバーに阿難は選ばれていなかった。なぜなら、その時点で阿難は未だ悟りを得ていなかったからである。煩悩を滅し尽くしていない者が、この重要な結集に参加して釈尊の教えを皆に披露すれば、誤解が混ざって正しい教えが伝わらなくなる虞れがあるからである。しかし、阿難は前述の如く、釈尊の側近として影のごとく長年付き従い、最も多くその教えを聴いて記憶しており、この結集にはなくてはならない存在であるとして、最終的にメンバーに加えられたという。阿難はその後、発奮して修行を積み、悟りを得た。一説によると、説法のために時間をとられていた阿難の様子を見かねた得道の僧(摩訶迦葉尊者とも)によって、「禅定を修すれば悟りを得られるが、多くの説法をして何になるのか」と諫められ、勇猛精進して修行を積み、あるとき疲れて横になろうと頭を枕に着けた瞬間、豁然として大悟したとも伝えられている。
 阿難尊者は、釈尊がお悟りを開かれた後の生まれで、釈尊の父である浄飯王の弟・甘露飯王の子であると伝えられるから、釈尊と阿難尊者は、従兄弟関係にある。『大智度論』によると、浄飯王が阿難の誕生をことのほか喜んだことから、歓喜を意味する「アーナンダ」と名づけられたという。

北政 十郎(花園大学学生)

《法話》「阿難尊者(アーナンダ)1」……小澤 泰崇(山梨・義雲院副住職)
《法話》「阿難尊者(アーナンダ)2」……木村 宗凰(岐阜・觀音寺副住職)