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「《法話》阿難尊者 1」

行解相応(ぎょうげそうおう)~外から学び、内から育む~

 二十五間、お釈迦様の傍で説法を聞き、「多聞第一(聞くことに最も優れる者)」と呼ばれる大弟子のひとりに数えられた阿難尊者ですが、実はお釈迦様の生前には、お悟りを開くに到りませんでした。そんな阿難が、お悟りを開くに到るきっかけとなったエピソードがあります。
 お釈迦様がお亡くなりになられた後、阿難は昼夜説法会を開いておりました。その為、阿難は、坐禅の時間もとれぬほど多忙な日々であったそうです。それを見かねたある修行者が次のような偈を示しました。

  樹下にいて思うを凝らせば
  心、涅槃にゆかん
  禅、放逸なるなかれ
  多く説くも何かあらん

 放逸とは、怠けること、疎かにすることを意味しますが、ここでは特に教えを説くことに重きを置いていた阿難に、坐禅修行に励めと示しています。この偈を機に阿難は心を入れ替え修行に励み、お悟りを開いたといわれております。
 「行解相応(ぎょうげそうおう)」という仏教語があります。仏教の智慧の学びも、坐禅などの修行もバランス良くしないと、仏道修行は円満な形にならないことを意味しております。では、なぜ学びだけでは足りないのでしょう。
 昔、中国の唐代の白楽天という詩人が、道林和尚という禅僧に「仏法の真髄とは何ですか」と質問すると、「諸悪莫作・衆善奉行(悪いことをするな、善いことをせよ)」と道林和尚は答えます。白楽天は、「そんなことは、三歳の子供でも知っていますよ」と言い返しますが、道林和尚は「三歳の子供が知っていても、八十の老人すらこれを実行することはむずかしいですぞ!」と応じたという逸話が伝わっております。
 頭で理解出来ていることが、なかなか実行に移せないのが私達人間です。
 例えば、電車やバスでお年寄りが立っていたら、私達には席を譲ろうかなという気持ちが少なからず湧いてきます。人間には、人さまに優しくできる仏さまの心が、生まれつき具わっています。しかし、そう思ってもすぐに行動出来ない時があります。恥ずかしいという気持ち、誰かがやってくれるのではないかという気持ちが、純粋な優しさの邪魔をします。
 そんな邪魔な気持ちを働かせないように、困っている人にサッと手を差し伸べることが出来るように、心を生まれたままの綺麗な状態に調えていく、心を育くむ訓練法のひとつとして禅が勧めるのが坐禅です。
 せっかく仏教の智慧を学んでも、頭で理解しただけでは、仏教を学んだ価値が半減してしまいます。外から学んだ智慧と、内から育む心、この二つが組み合わさり、智慧が日常生活のあらゆる場面で手足の動きとなって現れてこそ、仏教が活き活きと生きてくるのです。

小澤 泰崇(山梨・義雲院副住職)

【解説】阿難尊者……北政 十郎(花園大学学生)
【法話】阿難尊者2……木村 宗凰(広島・觀音寺副住職)

「《法話》阿難尊者 2」

 阿難尊者は浄飯王(釈尊の父)の弟、甘露飯王の子で、釈尊の従兄弟にあたりますが、年齢は三十歳ほど離れていたといわれます。
 釈尊には優秀な弟子が数多くいて、次々と悟りを開かれます。その中で、阿難尊者は、釈尊のそばに二十五年間つかえ、多くの教えを聞かれました。そのため、近侍第一、多聞第一といわれます。多くのお経は、「如是我聞(かくの如く我聞けり)」という言葉で始まりますが、その「我」とはほとんどの場合、阿難尊者を指します。それほど多くの教えを聞かれた阿難尊者ですが、なかなか悟りを開けません。そうするうちに、釈尊の命がもう長くないことを知り、大いに嘆き悲しみます。それを見た釈尊は、「悲しむな。諸行は無常であると私は説いたではないか。お前は私によく仕えてくれた。修行せよ。速やかに悟りを開けるだろう」と励まされました。
 私はこの阿難尊者を見ますと、修行でご指導くださった老師を思い出します。老師と私とは、親子ほど年が離れておりましたので、偉大な師匠でありますと共に、第二の親のように感じておりました。その老師が突然お亡くなりになったのです。修行道場では皆が泣いておりました。もっと長生きしていただきたかった、ご指導していただきたかったと嘆きました。それから毎年、老師のお墓にお参りします。老師のお墓の前に立ちますと、いつも涙がこみあげます。そんな私に老師は「悲しむな。修行に励みなさい。」といわれている気がするのです。
 涅槃図では泣き崩れひれ伏す阿難尊者の姿が描かれていますが、その後、阿難尊者は懸命に修行しついに悟りを開かれ、残された弟子たちと共に釈尊の教えをまとめ後世に伝えられました。そして、四十五年もの間、教団の中心的存在として布教されたといいます。
 私達も、大切な人といつか別れねばなりません。私達にできることは人間として成長していく姿をお見せすることではないでしょうか。

木村 宗凰(広島・觀音寺副住職)

【解説】阿難尊者……北政 十郎(花園大学学生)
【法話】阿難尊者1……小澤 泰崇(山梨・義雲院副住職)

「《法話》観世音菩薩」

 お釈迦様は2月15日に亡くなられました。お釈迦様が亡くなられる事を「涅槃に入る」といい、この様子を図に描いたものを「涅槃図」と呼んでおります。毎年この日には、涅槃図を本堂の中央に掲げ、涅槃会として亡きお釈迦様のご遺徳を偲んでおります。
 この涅槃図の中には、お釈迦様の死を悼む様々な動物や人物が描かれており、その中に「観世音菩薩」も描かれております。菩薩とは、自ら衆生と仏の橋渡しとなり、「自未得度 先度他」(自分の悟りはさておいてでも迷える衆生を救うんだ)という「誓願」をお立てになり、自らも厳しい修行をされておられます。そして「観世音」とは、世の音を観る。つまり、世の音声を観じて苦悩を解いて下さるという事です。

 亡くなられ、物言わぬお釈迦様の声なき声を聞き、音なき音を聞いている。そして、その周りで嘆き悲しむ者達の声を聞き、その姿を見る事で、如何にしてお釈迦様の教えを広め、多くの悩める者達を救えるか、という事をお考えになられているのではないかと思います。自分自身も悲しみのどん底にありながら、泣き崩れる者達を救わんが為に、その悲しみの声やお姿を菩薩様自身の身体全体で観じておられるように見えてなりません。

 しかし、世の音を聞き悩める者達を救うとは言うものの、実際に我々の苦しむ声を聞き、救いの手を差し伸べて下さる訳では御座いません。自らが世の音を聞いてご修行されている様に、あなた方も世の音をしっかり聞いて修行しなさいよ、と御示し下さっているのではないでしょうか。

 私達は今、一度も途切れる事なく続いてきた命のバトンをその身体一杯に持って生きています。この間にも、大いなる自然の中、多くの人々と出会い日々暮らしております。その中で、楽しい時の音、苦しい時の音、色んな状況を見たり聞いたりして、揺り動く心が御座います。亡くなられたお釈迦様を前にしても尚、他の者達を救おうとされる観世音菩薩様の御心を観じながら、自分を取り巻くすべての音に心の耳を傾けてみては如何でしょうか。

桐野 祥陽(京都・大泉寺住職)

【解説】観世音菩薩……五葉 鉄(花園大学学生)

「《法話》帝釈天」

 帝釈天は、インド古来の武勇の神で、後に仏法の守護神となりました。帝釈天は、六道のうち、忉利天という天の世界の主として、須弥山頂上の喜見城に住み、その配下の四天王は、その使者と共に人間界におりてきて人々の善悪の行いを観察し帝釈天に報告するといわれます。

 あるお爺さんの葬儀後の火葬場での話です。火葬場に入ると、小学生のお孫さんが、「エレベーターが沢山ある。」と言って驚いていました。親戚のおじさんが、「このエレベーターはな。良い事をした人は上へあがって極楽に行くが、悪い事をした人は、下へさがって地獄に行くんだよ。」と言いました。子供が、「お爺さんは上へ行けたの?」と聞くと、「沢山いいことをしたから、上へ行ってるよ。」と答えて、子供は安心したのです。おじさんの機転に感銘を受けました。

 一昔前は、親が子供に「仏さんが見てるよ。」としつけたものです。しかし今、そのような親は少ないように感じます。私達は、良い事もすれば、誰も見ていないからと悪い事もします。私達の心は、今こうして生きている間にも、エレベーターで天へ上がったり地獄へ下がったりしているのです。

 「仏さんが見てるよ。」と言われて育った子供は、悪いことをしてしまったら、「仏さんごめんなさい。」と謝ります。そういった仏様に見守られた生活を送ることが私達の心を次第に上へ上へと清らかな心にしていくことでしょう。
 法句経に「もろもろの悪をなさず、もろもろの善を行う。おのれのこころを浄くす。これ諸仏の教えなり。」とあります。悪い事をしないように努めると、自ずと心が清らかになる。そうして自分自身が心の底から悪い事ができないと思えるようになった人が仏さんではないでしょうか。

 お釈迦様は、私達と同じ人間として善悪に揺れる心に悩まれ、苦しんだ末にそれを乗り越えられました。涅槃図の中で涙をふく帝釈天の姿は、お釈迦様をずっと見守ってきて流された涙に思えます。

木村 宗凰(広島・觀音寺副住職)

【解説】帝釈天……永田 陽光(花園大学学生)

「《法話》摩耶夫人」

 摩耶夫人は、お釈迦様の御生母であります。「マーヤー」はまぼろしという意味で、仏典を中国で翻訳するときに「摩耶夫人」の音写のほか、「大幻化女」と意訳されています。この意訳はお釈迦様を出産後七日にして他界し忉利天に生まれたと記されている夫人に対する後世の仏教徒の考えによるものであると考えられているようです。
 さて涅槃図では天上より阿那律に導かれて下降する母摩耶夫人はお釈迦様の横臥する沙羅双樹の茂みのはるか上空の雲中で侍女を従え袖をたくし上げて悲しみに泣き濡れておられます。そして、その容姿はお釈迦様と死別した当時の若いお姿そのままであります。母の面影もしらぬお釈迦様にとって亡き母への追憶の情を涅槃図の作者は汲み取って描き表したのでしょう。 
 お釈迦様にとって死期を悟られてからの伝道は生母摩耶夫人を慕う最後の遊行ではなかったのではないでしょうか。双樹で涅槃に入られた西の方角には摩耶夫人のお墓が安置されているのであります。人間釈迦にとって自分の出生によって亡くなられた母に対する沈痛の思いや望郷の念と感じ取るのは凡夫の浅はかな妄想でしょうか。
 私の師父も十歳の時、母を亡くしています。ある時、何気ない会話の中で「父親と母親とどちらが残ったら良いか」と尋ねると、普段は無口な父が即座に「母親が残ったが良いに決まっとる」と言い切りました。子どもは幼い頃、こちらがどんなにあやしても可愛がっても最後は必ず母の元へと甘えに帰ります。子どもにとって母親は絶対であります。母親の慈しみと愛情に縁の薄い父にとっては幾つになっても母を慕いつづける思いの強さを感じました。

  十億の人に十億の母あれど
      わが母にまさる母あらめやも  (暁烏 敏)

 他の誰よりも自分を産んでくれた母より他にすばらしい母はおらないのであります。そして、歴史にもしもという事はないけれども、もしも摩耶夫人がお釈迦様出生後も健在ならば、仏陀の出現も無かったかも知れないと思うと摩耶夫人の非業の死は偉大なるお慈悲の賜物だと思うのです。

竺 泰道(大分・法雲寺住職)

【解説】摩耶夫人……奥田 智勝(花園禅塾卒塾生・龍谷大学学生)

「《法話》目連尊者」

 目連はお釈迦様の十大弟子の一人で、神通第一と称されます。当時のインドの発音ではマウドガリャーヤナであり、漢訳教典では、目連または目犍連と表記されます。
 目連尊者は舎利弗(シャリホツ)尊者と一緒にお釈迦様の弟子になられました。二人とも最初からお釈迦様の側に坐ることが許されました。涅槃図のおいても、沙羅双樹のもとで休まれるお釈迦様のすぐ近く手前、または奥に描かれています。
 夏のお盆は国民的行事ですが、その元となったのが、目連尊者とその母の故事です。目蓮尊者はある時神通力を働かして亡き母の様子を探りましたが、母は餓鬼道に落ちて苦しんでいました。それは母が我が子可愛さのために犯した罪のせいでした。目蓮尊者はお釈迦様のお導きにより、無事、母を餓鬼道から救うことができました。同様にして餓鬼道に落ちたその他全ての人々も救われたのでした。
 目蓮尊者のような立派な方を産み育てた母がなぜ餓鬼道に落ちたのでしょう。私はそれが腑に落ちませんでした。しかしある時、そんなに立派な母だからこそ餓鬼道に落ちたのだ、と思い当たることがありました。それは、多くの餓鬼道に落ちた人々が救われる道が示されなければならなかったからではないのか、と言うことでした。
 私は以前、家庭が面白くなく、親に乱暴をしたり、暴走族にはいって暴走行為をする若者に接したことがあります。彼はこういいました。「親が仲良うしてくれさえすりゃぁ、わいが暴れることはなかったかもしれん。」ひょっとしたらこの若者は、両親の関係が修復されるためにその役回りをしたのかもしれないのです。
 目蓮尊者の母が餓鬼道に落ちたのは、他の人々も救われるためだったのであり、私が接した若者は、家庭に平穏を取り戻すために自ら修羅の道に入ったではないのでしょうか。彼のご両親がこのように考えてくださった時、この一家が家庭を取り戻す道筋が見えてくるかもしれない、と思いました。

豊岳 慈明(岡山・豊昌寺住職)

【解説】目連尊者……吉田 叡禮(花園大学准教授)

「《法話》老女」

 涅槃に入られたお釈迦さまの足元にすがり、その御足をさすりつつ涙を流す老女がいます。貧しく供養する物が無い老女は、長年の行脚を支えられた足をいたわり、お釈迦さまを一心に思って涙するのです。
 この老女の姿を見ていると、ふと修行中に出会ったお婆さんの事を思い出します。お正月のこと、私は新年の御札を配っていました。その年は大雪で、大量に残る雪の中に草鞋を突っ込み歩いておりました。もう寒い冷たいは通り越してただただ痛いだけ。身を切るような寒さとはこのことか、と思い知りました。身体の先端から感覚がマヒして行きます。
 とあるお家を訪ねた時、応対に出られたのはお婆さんでした。新年の挨拶をし、かじかむ手でなんとか御札を渡します。受け取っていただき合掌をしました。その合掌の手を優しく包まれたのです。「こんな日の中、ご苦労さん、ご苦労さん」と私の手よりもずいぶん小さく細い手のひらで暖めようとさすってくれたのでした。「そんなこと、いいですよ」照れくさくてそう告げても、重ねられた小さな手が一心に、何度も何度も往復をします。冷え切っていた手に感じるお婆さんの暖かさが、そこから心の奥深くまで染み入るようでとても嬉しかった。あれからもう十年以上たちましたが、あの日の、私を包んだあの小さな手を今なお忘れられません。
 「唯だ一心即ちこれ仏なり」心そのままが仏であります。その心は一個人にとどまらず、全てを含む心。個に型にとらわれない心。「自なく、他なし」と垣根を取り払ったもの、柔軟な心が仏の心、私たちそのままの一心なのです。そんな偽りない心、真心は送られた者の心に溶け込み消えることはありません。
 お釈迦さまの足に落ちた老女の涙の跡は消えることなく残ったといいます。それを見た尊者たちは感じ入り皆、礼拝しました。

福田 宗伸(岐阜・通源寺住職)

「《法話》耆婆(ぎば)」

 日本や中国では名医を四字熟語で「耆婆扁鵲(ぎばへんじゃく)」と申します。
 扁鵲は中国・戦国時代の伝説的な名医で、耆婆はインドの名はジーヴァカといい、中国で耆婆と音訳されました。
 この方はお釈迦様の主治医を務められ、またマガダ国の大臣も務められ「耆婆大臣」とも呼ばれます。医王として時の人に崇仰せられたが、自らも仏教を深く信じ、外護者となった方であります。お釈迦様の風疾の治療の他にも、阿難が背の腫れ物に苦しんでいる時、阿難の聞法の熱心さを知っていた耆婆は、お釈迦様の説法中、腫れ物を切開し膿を出し治療したが、阿難は全く気付かなかった程の名医であったそうです。

 耆婆の事である経典にこのような話がございます。耆婆が若い頃医者になる為に勉強をしていた時のことです。先生から籠と草を刈る道具を与えられ、「どこでもよいので10キロ四方に土地を区切り、その土地の中で薬にならない草木があれば、それを採ってきなさい」と命じられました。言われた通り耆婆は土地を区切って草木を調べましたがどれも薬になるものばかりで、薬にならない木は見つかりませんでした。耆婆はその事を先生に報告しました。すると先生は「よろしい。お前は医術を全て修得した。もう教える事は無い。私のもとを去るがよい」と言われ、耆婆に医者の免許を与えた。

 この話は、この世の中になくていいものなど一つもない。という仏教の大事な教えを伝えているのです。私達はこれは使える、あれは使えないと自分勝手な尺度で物事を見てしまいます。そうではなく我を取り除いた無我で見てみればこの世に何一つとして無駄な物などないと気付く事が出来るのではないでしょうか。お釈迦は菩提樹の下で「山川草木悉皆成仏」と覚られました。お釈迦様が涅槃に入るまで五〇年の生涯を懸けて人々に説いたこの教えを私達もしっかりと自覚することが出来ればより好い生き方になるでしょう。

華山 泰玄(岡山・少林寺住職)

【解説】耆婆(ぎば)……土居 祐人(花園大学学生)

「《法話》純陀(チュンダ)」

 -供養したのはお米?きのこ?豚肉?-

 漢字名で純陀、周那、淳陀、准陀。下に長者が付くこともあり、日光長者の名になっていることもあります。
 涅槃図においては、大抵の場合お釈迦様の横たわっている宝床の右前で泣き伏していますが、まれに供物を捧げる姿のものもあります。
 チュンダは鍛冶工の子であり、鏡を磨く職人だったとの説もあります。
 チュンダはお釈迦様に最後の食事を供養した人です。その食事を食べられた後、お釈迦様は病が重くなり、その結果涅槃に入られたので(亡くなられたので)、チュンダは大変後悔します。
 しかしお釈迦様自身はもう3ヶ月も前から自らの死を予測されておりました。ですからお釈迦様は同行していた阿難に、「私が悟りを開く時にスジャータが供養してくれた乳粥と、チュンダの供養してくれた食事には同じだけの功徳がある。そのことをチュンダに伝えてきなさい」と言われ、チュンダの心を慰められました。
 さて、ここでいつも議論になるのが、チュンダは何をお釈迦様に供養したのか?ということです。日本においては明治の初めまで、お釈迦様は背中の痛みによって涅槃に入られたとされていました。ですからチュンダは八石の米を供養した、という記述にとどまっていたのです。
 しかし、19世紀初頭から西洋では仏典の研究が進んでおり、パーリ語の「大般涅槃経」を訳した際に、語意の直訳が原因でチュンダが供養したのは「やわらかい豚」という解釈がなされ、日本にこの説が伝わった時、多くの仏教徒がショックを受けたといいます。
 しかし「長阿含経」ではチュンダが供養したのは「栴檀樹耳」を煮た物とあり、すなわちキノコの煮物ということです。
 原典を自分達に近い言葉として解釈をしていた南方仏教や、中国の仏教でもキノコ説が有力です。また後に西洋でもより研究が進み、「豚が好んで土から掘り出して食べるキノコ」という説が有力になったことで、現在では豚肉説は少数派ということになっています。
 豚が掘り出すキノコといえば、西洋ではトリュフ、日本では松露なども近いかもしれませんね。
 ただ、ここで大事なのは、原始仏教においては托鉢で頂いたもの、人々の好意で供養されたものは、中身が何であれ、好き嫌いせずに有難く頂く、という決まりがあり、よしんばチュンダの供養が豚肉であったとしても、お釈迦様は感謝して頂いていただろう、ということです。
 仏教においては食事も一つの修行です。そして全ての食べ物は自分以外の命から成っているという認識があります。
 お釈迦様の時代から2500年、現在も私達は食事の時に「いただきます」と感謝の意を表します。自分の身を保つために他の生命を有難く「いただきます」という気持ちを、私達はお釈迦様の時代からずっと食卓に受け継いでいるのです。

清水 圓俊(福岡・修林庵住職)

「《法話》速疾鬼」

 お釈迦様が亡くなられたとき、お釈迦様の歯を盗んで逃げた速疾鬼。本堂で朝のお経をあげて、引き続きお寺の玄関にいらっしゃる韋駄天さんにお経をあげるとき、私はこの韋駄天さんに捕まえられた速疾鬼のことを時々考えます。

 私の実家は山口県ですが、戦前、父がまだ子供の頃、実家の近くのお寺に「鬼」が住んでいた、という話を聞いたことがあります。本当の鬼ではありませんが、天を突くような巨体の寺男(お寺に住み込んで下働きをする人)だったと言います。初老でしたが力が強く、眼光鋭く無口で、近所の子供達から「鬼」呼ばわりされるに十分な風貌でした。

 しかし子供だった私の父はあるとき親類の法事の席で寺の和尚さんに「鬼」の正体を聞きます。その人は大正十二年の関東大震災で奥さんや子供を失った相撲取りだったのです。家族を失った悲しみで関東から落ち流れてきたその男は、大阪で傷害事件を起こし、広島で物を盗んで山口まで逃げてきたところを、その寺の和尚が寺男として迎え入れたのでした。大阪や広島にはわざわざ和尚が頭を下げに行ったということです。

 戦争が始まり、空襲で街が焼かれた時、防空壕に逃げていた私の父は、思いがけぬ光景を見ます。「鬼」が父の友達2人を両腕に抱え走ってくると、ぽいぽいっと友達を防空壕に投げ入れ、また他の子供や老人を抱えてきてはぽいぽいっと投げ入れる、そして頭上のB‐29に向かって「うおー」と叫びながらまた出て行った。その後「鬼」を見てないが、どうなったろうか、と私の父は回想します。

 速疾鬼のことを考えると、私はこの鬼の話を思い出します。
 速疾鬼は何故お釈迦様の歯を盗んだのでしょう。きっと心に深い闇や悲しみがあったんじゃないでしょうか。そんな速疾鬼も後には改心して仏教の守護神になります。仏教には「許す」という広い心があります。速疾鬼も件の「鬼」もきっと仏教によって心を救われたんだなあ、と思うのです。

清水 円俊(福岡・修林庵住職)

「《法話》阿那律尊者(アヌルダ)」

 アヌルダ、阿那律尊者はお釈迦様の従弟であり、十大弟子のひとりとして天眼第一と讃えられます。天眼とは、あらゆるものを見通す力のことです。
 その昔、お釈迦様がお説法をされている最中に、アヌルダは不覚にも居眠りをしてしまいます。それに気づかれたお釈迦様は、慈愛に満ちた口調で「居眠りは怠け心から起こってくる。道を求めるものは気を引き締めなくてはなりません」とさとされました。それからのアヌルダは「どんなことがあっても、決して眠らない」と心に決め、絶対に眠ろうとはしませんでした。
 お釈迦様は「眠ることの良し悪しは時と場所によるもので、修行中に居眠りするのは良くないが、無理なことをするのも良くない」と、両極端になることを再三、注意をされますがアヌルダの決意は固く、とうとう失明してしまいます。同じ失敗を二度と繰り返すまいと仏道修行に励んだ結果、肉眼は失ったものの、しかし智慧の眼を開くに到ったのです。
 『華厳経』には、「仏の智慧はすべての真理を知り、かたよった両極端を離れて中道に立つ」とあります。
 私たちは、学歴や地位にこだわったり、家柄や財産があることを自慢することで優越感を感じてはいないでしょうか。すべてのものは移り変わっていき、一時も留まることがありません。これを「諸行無常」といいます。移ろいゆくものにこだわり続けているのが私たちの人生です。やがて消え去ってゆくものに執着せずに、もっと他に大切なものがあることを考えなさいというのが「中道」の教えでもあります。
 こだわりを離れるということは、自分の利益だけを考えて生きていくのではなく、少しでも他人に喜びを与えるような生き方をすることです。さらには、他人の喜びは自分の喜びであり、他人の悲しみは自分の悲しみであると受け止めることができたならば、その人は仏のような人でありましょう。

松岡 宗鶴(佐賀・松山寺住職)

【解説】阿那律……圓 祥宏(花園大学学生)
【解説】阿泥樓駄(あぬるだ)……圓 祥宏(花園大学学生)

「《法話》跋難陀龍王・難陀龍王」

 涅槃図において「跋難陀龍王・難陀龍王」は、お釈迦様が眠られている宝床より右手に、龍が人物に巻き付く姿で描かれ、異彩を放っています。
 龍王は、水を司る鬼神とされ、雲を呼び雨を降らせると言われております。龍といえば妙心寺の法堂を始め多くの御堂に描かれており、お参りに来る者達に法の雨を降らせると言われています。しかし、時に嵐を呼び、雲を呼び、雨を降らせる龍王でさえ、お釈迦様の臨終に際しては、自らも涙を流して悲しんでいるのです。

 龍王は水を司るとされておりますが、我々においても水は非常に大切です。現に、私達の身体の60パーセントは水で出来ており、水なしでは生きていく事は出来ません。私達が雨だれの音や小川のせせらぎといった水の音を聞くと、何故か心がふと落ち着くのも、我々の身体に流れる水が共鳴しているからではないでしょうか。

 私達は、慌ただしい毎日の生活に追われ、時に悩み時に苦しんだりします。このような時には、色々な所で身体の巡りが悪くなり、体調を崩したり心が不安定になったりします。言わば身体や心が、水たまりの状態になってしまっているといえるのではないでしょうか。水は天から大地へと降り注がれ、川となって流れ命を育み、また天にかえっていきます。この大きな自然の中での循環があるからこそ、地球が誕生して以来、決して絶えることなく続いて来た命があるのです。

 亡くなられたお釈迦様の側で涙を流す者達は、深い悲しみの中にあり、正に心と身体の循環が止まってしまっている状態だと言えます。しかし、生きとし生ける全ての命の根源となる水を司る龍王は、お釈迦様を亡くした悲しみに暮れながらも、お釈迦様の残された法の雨を降らせる事で、多くの悩み苦しむ者達を救っているのです。

 皆さんも雨音や小川のせせらぎの中に龍王の心を感じ、心と身体の水たまりを小川のせせらぎに変えて、命の営みを感じてみては如何でしょうか。

桐野 祥陽(京都・大泉寺住職)

「《法話》阿修羅」

 八部衆に属する仏教の守護神であります。阿修羅と言えば奈良・興福寺の阿修羅像が有名です。天平の美少年と称されるこの三面六譬の像は多くの人を惹きつける美しい姿をしています。お顔も美少年と謳われるだけあって何とも言えない穏やかな表情をされています。しかし、涅槃図で描かれる阿修羅の多くは怒りの形相であります。闘争的な性格であるため六道の修羅道の主として、争いの絶えない世界に身をおく戦いの神であると言われています。

 私達は楽しい時には笑い、悲しい時には涙し、悔しい・意のままにならない時には怒りなど、一つの顔でありながら多くの面を持っています。そして、怒りや貪りの心で我を見失うと喧嘩など争いをする事もあります。修羅場と言う言葉がありますが、これは宿敵である帝釈天と大変な乱闘を繰り広げられた事が語源と言われております。お互いに自分には無いものを手に入れたいという欲が、嫉妬になり争いが起きます。そのような争いをするのは阿修羅と帝釈天だけではないはずです。また思い通りにならない時にイライラして、憎悪の感情を周りの人にぶつけてしまう事があります。それが原因で仲違いし、修羅場をつくってしまう事もあります。感情を抑える事が出来ず争いを起してしまうのです。
 私達が本当に戦うべきは周りの人では無く、自分自身であるはずです。遺教経に「ひたすら欲をおさえて己に克たんとつとむべし」とある様に、自分の中にある欲望と戦う事が大切であります。

 己に克つのは生半可な気持ちでは克てません。阿修羅が仏教の守護神でありこの涅槃図に描かれるのも、当に阿修羅の如く必死で戦わなければ、欲望をおさえて己に克てないと、いう事を示しているのでしょう。喜怒哀楽を受け入れ、欲望に克ち、自身を調えた先に興福寺の阿修羅像の様な美しい姿に私達もなれるのではないでしょうか。お釈迦様の教えを実践し、争いの無い穏やかな気持ちを持って美しく生きていきたいものです。

華山 泰玄(岡山・少林寺住職)

【解説】阿修羅……浅野 大智(花園大学学生)

「《法話》迦楼羅・摩睺羅」

―チームワーク―

 一昔前、大工の格好をした一団がベートベンの「第九」に乗せて、「みんなで楽しく天ぷらそば食べよう」と美しいハーモニーで歌う某社のCMがありました。

 年末年始は各地でオーケストラのコンサートが開催されます。オーケストラには、様々な音色・音域の楽器があります。お互いの音を邪魔せず生かしつつ、美しいハーモニーを奏でていきます。冒頭のCMのように「新年もみんなで楽しく、仲良く生きていきましょう」というメッセージ性も年末年始のコンサートから感じます。

 仏教を守護する八部衆である迦楼羅と摩睺羅にもそれぞれ役割があります。迦楼羅は、口から火を吹き私達の煩悩を焼き尽くす役割、摩睺羅は音楽神として人々の心を豊かにする役割を担っていました。涅槃図には、人を始め、迦楼羅・摩睺羅のような人非人(姿は人に似ているが人でない者)や、鳥獣も多く描かれておりますが、それぞれに役割や意味を持っています。仏教は、お釈迦様を中心に様々な役割を持つ弟子や守護神、信者らのチームワークによって守られてきたことをも、涅槃図から読み取れるように思います。

 「竹に上下の節有り 松に古今の色無し」という禅の言葉があります。竹には上から下まで、沢山の節がありますが、一本の竹を構成するためには、どの節も欠かせず、また、松には今も昔も変わらない緑色という特徴があります。

 私達には、自分にしかない特徴、オーケストラで言えば独自の音色・音域があります。置かれている立場で上下関係も確かにありますが、命そのものは平等で、どの命も地球に欠かせないものです。そのことに自信を持つと同時に、全ての命の素晴らしさを認め、お互いを労り助け合いながら生きていきたいものです。

 余談ですが、サンスクリット語にマホラガ(mahoraga)という言葉があります。偉大な(maha)蛇(uraga)という意味で、千の頭の頭上に全宇宙の全ての星を抱きながら歌うヒンズー神話の蛇の王、シェーシャ神のことを指すそうです。一説では、このシェーシャ神(マホラガ)が、仏教における摩睺羅と言われております。摩睺羅の奏でる音楽は、正に全宇宙の調和を願ったものなのかも知れませんね。

小澤 泰崇(山梨・義雲院副住職)

【解説】迦樓羅……浅野 大智(花園大学学生)
【解説】摩睺羅……石井 湧達(花園大学学生)