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「〔法話〕厳しさ寒さのなかで」

 厳しい寒さを感じるのは、一月の半ば過ぎからこの月に掛けてのようです。如月とは着更に着るほど寒さの厳しい月だともいいます。
 雪の朝などは、車も通らず世間の音まで凍てついたように静かで、ときおりザザッと聞こえる竹藪の雪の落ちる音にほっとするような時もあったことや、餌を求めるヒヨドリの甲高い声が響き渡っていたことが思い出されてきます。あまりに寒いので目が覚めて寝られなかったという話もよく聞いたものです。でもこうしたことを体験することで冬の寒さが身に沁みて分かったものでした。
 昨今の家屋をはじめ、至る所で冷暖房が完備され、夏冬共にしのぎやすくなっているところが多く、私たちの生活を取り巻く環境は大きく変化しています。ところが、こうした自然に逆らった生活の形の変化というものが、人間が本来持ち合わせているあらゆる困難にも適応できるはずの潜在能力というものを衰退させてきた一因ではないかと思うのです。
 そうしてみますと僧堂の生活というのは、簡単明瞭で自然と共にあり、暑ければ開ける、寒ければ閉じるというくらいシンプルなものだったと思うのです。夏冬四季を問わず素足で過ごし、着るものはいつも同じものであり、食べるものも毎日同じでした。その中では何ら不自由を感じなかったのは生活に適応していたからでしょう。
 この二月の十五日はお釈迦様が涅槃(ねはん)に入られた日です。涅槃にお入りになる時に多くのお弟子様たちの見守る中で「汝等(おんみら)よ 今我、涅槃(やすらい)に入るを見て正法常久(とわ)に絶えたりと思う事なかれ。(略)汝等よ、教えの要は心を修(おさむ)るにあり。ひたすら欲を抑え、己に克たんと勉べし。身を端(ただ)し語を正し、意を誠にして無常の理を忘るる事勿れ。」(略遺経(りゃくゆいきょう))と、最後の説法をされたのです。私が、涅槃に入ったからといって教えや私がなくなったというのではありません。五欲のままに動かされ、周囲の変化に戸惑っている自分の心を修めようと精進する人とともに私はあるのですと、説かれています。
 お釈迦様というのは二千五百年以上も前にお亡くなりになった方ではありますが、心を修めようと修行をする人といつも一緒にある存在であることを、私は厳しい寒さの中で教えられました。

林 学道(兵庫・靈雲寺)