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「〔法話〕涅槃会―死をみつめよう―

  土不踏(つちふまず)ゆたかに涅槃し給へり

 釈尊の涅槃像にちなんで川端茅舎が詠じています。ゆたかなつちふまずとは、生涯を一切の人々のために慈悲を尽くされた、釈尊の偉大な人格を讃えています。また、生死を超えた釈尊の死は、今は身も心も大寂静の世界に入られたということから入涅槃といいます。
 私たちはどうでしょうか。「死ぬのは嫌だけど何ともならん」と受取るしかないのでしょうか。今日は、ガン告知とか老いの様々な問題などから死の問題がクローズアップされてきました。そうではなくても、人間一度は死ということを考えるべきではないでしょうか。
 先日、仏事の席で、隣に坐られた方がしみじみ述懐されました。その方は新聞社にお勤めでしたが、六十歳を前にして心筋梗塞に見舞われました。イヤも応もなく生と死の境をまざまざと味わうこととなりました。そして「今までは自分の力で堂々と生きてきたと思っていましたが、とんでもない。目に見えないいのちというか、すばらしい力によって支えられているようだし、多くの人々やものによって生かされていたんだということが、よくわかりました。もうこれからは一切おまかせです。感謝です。これからの人生は少しでもお返しさせていただければと思っています」と。すっかり人生観も変わり、お顔には喜びと安らぎがみえます。おそらく急に変わられたのではなく、誠実な執筆の仕事を通じて、心の奥底では常に真実のものを求めておられたからに違いありません。
 さて、仏さまがあなたに百年のいのち、永遠のいのちを与えると保証されたら、真実ありがたいと喜べるでしょうか。また、どう生きるというのでしょうか。
 どこまでも充実したほんとうの生き方ができると自信のもてる方なら、もう死は小さな問題です。より多くの人々のため、あるいは仕事や芸道のため…「頂上を 忘れて登る 富士の山」の姿勢で生きられるならしめたものです。死の問題はそのまま生き方の問題です。

横田 宗忠(香川・法泉寺住職)