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「〔法話〕涅槃の日に―お釈迦さまに魅せられて―

涅槃の日に―お釈迦さまに魅せられて―

 ご本山妙心寺の涅槃堂には、日本三涅槃像の一つとされる赤銅製のレリーフがあります。八十年の生涯を終えられたお釈迦さまの最期のありさまを描いたものです。お弟子をはじめとする人々はもとより、動物たちも集まり、泣き悲しんでいます。他の涅槃図では、鼻を振りかざし、前足を高くあげ、眼から涙がこぼれそうになった象がいて、悲しみを一層つのらせます。
 鎌倉の円覚寺の元管長朝比奈宗源老師は「お釈迦さまが亡くなった時、鳥や獣が、あんなに泣いている。私も犬や鳥から懐かしがられる人になりたい」と心に誓われたと聞いています。
 古くは、お釈迦さまを恋い慕い、生涯その生まれた国へ渡りたいと思い続けた明恵上人。二月十五日の涅槃の日に死にたいと念じられた西行法師など、お釈迦さまに魅了された人々は、枚拳に暇(いとま)がありません。高齢と病に苦しみながらも、歩を進められた最後の旅からも人間としての魅力の一端を窺うことができます。
 この旅での、食事の供養が原因で病に罹られました。血の迸るような下痢と激しい苦痛を見て供養した人は、どんなに己が心を咎めたことでしょう。苦しみの中にもお釈迦さまはその人を気遣い、「心を労(いた)めることはない。汝(おんみ)の行った徳は大きい」とお声をかけられ、かばわれたのです。死の床にあって自分がこんな言葉を吐くことができるのかと思います。最後までお側仕えされた阿難尊者を召しては「汝は以前(まえ)から私に侍(つか)えて私のために何事もしてくれた」と褒め讃え、手を挙げて樹の枝にすがり泣く尊者を慰めるのです。危篤の状態の中でも、周りの人を労わり思いやるお心が、生きとし生けるものにまで及ぼされてきたからこそ、鳥獣たちまで集まり、声ならぬ声をあげ続けたのも不思議ではありません。
 「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」これは修行者たちに遺されたお言葉です。無常であるから、今の一時一時を全力で生きることが大切であると、お釈迦さま自ら生涯をかけてお示しになられたことでした。一瞬も怠ることなく精進努力され、生命を輝かされた、その人格から滲みでた薫りと言行が、多くの人を魅きつけてやまなかったのです。
 お釈迦さまのお言葉を噛み締めた時、いつもこの位でよかろうと怠る自分がありました。森鴎外は、訳書『慧語』の中で、「意志の欠乏即ち怠惰である」と示し、健全な精神と肉体を保つ意志の大切さを説いています。意志を欠いたから、精神を怠り成就できなかったことがたくさんあります。強い意志があってこそ、怠らず努めることができ、「谷川の僅かな水でも、休みなしに流れれば、石に穴を開ける」(遺教経)ことができるのです。
 お釈迦さまのお言葉を今一度反芻して、人生をもう一度見つめ直してみたいものです。

鈴木 眞道(静岡・富春院住職)