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「〔法話〕遊行」

 二月十五日は涅槃会、現(うつ)し身としての釈尊の入滅の日である。
 『遊行経(ゆぎょうきょう)』には釈尊の最後の伝道の旅の様子が詳しく記されている。読みすすむと胸がつまる。年老いて病身の釈尊が、臨終を自覚し、行く先々で倦(う)むことなく人々を教化する。
 何度も悪魔が現れては速やかに涅槃に入るよう唆(そその)かす。釈尊はその度に気力を奮って退散させる。老衰の身の旅のつらさから「死の誘惑」に駆られることもあったのだろうか。
しかし・・・・・・、どんな状況でも釈尊は本当に人々への慈愛に満ちている。
 鍛冶屋チュンダの供養による食中毒が入滅の直接の原因だったが、釈尊は侍者・阿難を遣わせ、彼に後悔させぬよう見舞う。
 さらに、釈尊入滅後のことを心配する阿難に「自帰依・法帰依、自灯明・法灯明」の教えを説き、問われるままに自らの葬儀の方法まで懇切に指示している。
 そして、いよいよ末期のその時。苦しい息を調えながら、釈尊は弟子達に告げる。
 「私の教えに何か疑問はないか。後悔を残してはいけないよ」と。
 三度促されたが弟子達は誰も声を発しなかった。そのことを確認した釈尊は、自ら静かに口を開いた。
 「この世のすべては移ろいゆくものである。放逸を為すことなく精進せよ」。
 そう言い遺して、釈迦は息をひきとった。
 人を導くことは大いなる慈悲行である。しかし、慈悲を口にするのは易いが、実践するには筋金入りの精神力が要求される。最後まで人々に心を配ることこそ、釈迦の人生―慈悲の生涯の完成だったのだろう。
 クシナーラーの沙羅双樹の間で、現し身の釈尊・肉体としての釈尊は入滅した。けれども、その教えは時空を超えて、今、親しく私達に届けられている。
 あの時、釈迦はまさに人類の師として、永遠の遊行に旅立たれたのだと私は思う。

高橋 宗寛(千葉・妙性寺住職)