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「《法話》象」

 ぞうさん ぞうさん
 おはなが ながいのね
 そうよ かあさんも
 ながいのよ
 ぞうさん ぞうさん
 だれが すきなの
 あのね かあさんが
 すきなのよ

 詩人まど・みちおさんの童謡「ぞうさん」。誰もが一度は歌ったことがあるのではないでしょうか。ゆったりとしたリズムが心地よく、愛らしい子象の姿が思い浮かびます。私も幼い頃、飽きもせずによく歌ったものです。

 仲の良い親子の情愛を伝えようとしている。一見するとそのように読み取れます。しかしそれだけではありません。まどさんはこの歌についてこう言われたそうです。
 「自分は生かされているんだ、『ぞうさん』はそういう誇りをもてる歌なんです」
他のどんな生き物よりも長い鼻を持つ象。その鼻が変わってる、鼻が長くておかしいね、と子象はからかわれています。だけど子象はそんな意地悪な言葉をさらりといなして「かあさんの鼻も長いし、そのかあさんが好き」と答えます。大好きな母親と同じ鼻の長い象としての自分を素直によろこび、そんな象として生かされていることを誇らしげに語るんです。

 違っていてもうれしい、違うからこそうれしい。そんなまどさんの思いが込められている詩なんですね。
 お釈迦さまは自分がただ一人の自分であることに気がつかれました。この世の中に誰一人として代わることのできない命をいただいている。同じものは二つと無い、だから私は尊い存在なのだ、と。そしてそれは自分以外の命もまたたった一つのかけがえのないものという気づきです。

 互いの姿、在り方は違えどもその尊さには違いはない。むしろ違うからこそ尊く誇らしい。私たちはそんな違いを認め合わねばなりません。私たちは一人ではなく互いに生かし生かされ生きているのですから。
 違うことを尊んでくれたお釈迦さまとの別れを嘆く涅槃図の象。その象と歌の子象が重なります。決して私たちを見て「鼻が短いね」とは言わないでしょう。「あなたの鼻も素敵だね」そんな声が聞こえるようです。

福田 宗伸(岐阜・通源寺住職)

【解説】象……香取 芳德(花薗大学学生)

「《法話》虎と豹」

 涅槃図に描かれている動物たちの中に仲良く寄り添っている虎と豹がいます。この二匹を江戸時代の人は、虎がオスで豹がメスの夫婦と思っていたようであります。この虎や豹は、よく寺院の襖や屏風,衝立などに描かれることが多い。私たちの本山、妙心寺にも重要文化財に指定されている狩野山楽筆の六双屏風、「竜虎の図」に威風堂々とした虎豹が描かれています。
 また私の修行した大分の萬壽寺にも大玄関を入ると二、三百年前に中国で描かれたという親虎と二匹の仔虎と仔豹の衝立があります。中国の語に「虎豹の駒は未だ文を成さずして食牛の気あり」という言葉がありますが、立派な人物になる人は、小さい時からどこか違っているという喩えでありますが、精進努力して人格を磨く雲水の修行道場には打って付けであります。因みにこれは、二十数年前、閑栖老師が中国で求められたものです。
 近年、虎は毛皮や漢方薬の素材として密猟されて数が激変し、絶滅危惧種として保護されていますが、未だに密猟が後を絶たないそうです。一方、豹の方は上手く生き延びているようで、ファッション界でも豹柄の衣装は人気があり女性の間では流行っていると聞きます。
 さて、お釈迦様のお話の中にも虎を題材としたものがあります。聖徳太子が推古天皇に差し上げたという法隆寺にある国宝の「玉虫の厨子」の扉の一方に蕯埵太子の「捨身飼虎の図」が描かれていますが、これは蕯埵太子が山中を歩いていると竹やぶの中に一匹の母虎と七匹の仔虎がまさに餓死しようとしているのを見て已むに已まれず太子は、自らの身体に傷をつけ血を流して自分の身体を母子の虎に投げ捨てて母子の虎を救った物語であります。この蕯埵太子は、お釈迦様の前世のご修行として経典に示されています。他の生物を救うためにわが身を投げ出して布施することは布施行の中で最上なものです。身を捨てて衆生済度するお釈迦様の慈悲行の教えは、お釈迦様の涅槃に対して獰猛な虎豹をも平伏し嘆き悲しむ姿で現しているのです。

竺 泰道(大分・法雲寺住職)

【解説】虎と豹……六田 雄輝(花園大学学生)

「《法話》犀」

 涅槃図には様々な動物が描かれています。ゾウは鼻が長いので分かりやすいですね。トラやヒョウも身体のしま模様やヒョウ独特の模様があるのでこれまた分かりやすいです。しかし頭に角が生え、背には亀のような甲羅をまとった動物も描かれています。これが、昔の人が想像したサイなのです。サイの角は昔から解熱剤などで使用されていたので、この動物の存在は知られていたのでしょう。
 『スッタニパータ』に「犀の角のようにただ独り歩め」と、お釈迦様の教えが説かれています。お釈迦様は、弟子たちが諸国を旅してみ仏の教えを広めようとするとき、決して二人以上で行かせませんでした。「犀の角のようにただ独り歩め」と送り出したのです。送り出された弟子たちの中には、たいそう心細かった者もいたことでしょう。見知らぬ土地、見知らぬ人々の中にたった独りで赴くのです。精舎での修行仲間はいません。寂しさが身にしみたはずです。
 しかし、思えば、私たちは皆、独りでこの世に生れ来て、独りで去っていかねばなりません。私たちの人生の局面において、孤独で寂しいとの思いに駆られることもあるのです。とりわけ、肉親や本当に親しかった人との別れを経験し、寂しさが極まったときに、「悲しいのは私だけではなかった、あの人もこの人も悲しい思いをされたのだ」と、本当の意味での思いやりの心が生じて来ます。私も住職として多くの人のお弔いをさせていただいてきましたが、自分の親を送ってからは、家族を亡くされた方々の悲しみに、心が大きく共鳴するようになりました。
 お釈迦様がお示し下さった「犀の角のようにただ独り歩め」とは、慈悲の心にめざめよ、とのお導きではなかったのか、と、今、私は思うのです。

豊岳 慈明(岡山・豊昌寺住職)

「《法話》獅子」

 獅子は俗に「百獣の王ライオン」と言われます。仏教でも例えば、『無量寿経』には須弥山王と説かれ、獣の中の王を意味しています。お経の中でもすでに同様の意味を持つ言葉が存在していたのです。
 また禅の世界でも「優れたもの」の形容で使われることが多いようです。「獅子窟」は優れた僧を育てる禅の道場に例えられ、「獅子吼」は、仏の説法を指し、その素晴らしさに誰もが耳を傾けるといいます。

 道場で修行中の頃、老大師のお供で京都に出かけた時の話です。私達が待っている新幹線の反対側のホームに和尚さんが頭陀袋首からではなく肩に掛け、手をブラブラさせて歩いています。その姿を見るや老大師は、「和尚たるもの頭陀袋を肩掛けし、叉手もせず手をブラブラさせて歩くとは何事だ!威儀即仏法(威厳のある行儀、生活がそのまま仏法)と言うではないか。ああいう姿は真似してはいかん。」と。若き修行僧の私にとって、まさしく「獅子吼」そのものでありました。今もって頭陀袋を肩掛けするなんてとんでもない姿と心得る次第です。
 しかしある日、肩こりがひどくなり背に腹はかえられない事態に陥るようになりました。そこで老大師のもとに赴きこう訴えたのです。
「私は(中略)こういう言葉を直接頂きましたので、(中略)、ですから肩こり予防の為にも、今後は頭陀袋を中学生が通学カバンを掛けるようにして、なおかつ頭陀袋本体はお腹の上あたりに置きたいのですが。」
「ふむ、威儀即仏法の心構えが常にあればそれもまあ良かろう。それはそうとお前さん、さっきこの部屋に来る時、なぜ手をブラブラさせてここに来たのかね。」
「……。」
 「獅子哮咆すれば百獣脳烈す」(優れた禅のお師匠様の一言一句の偉大さを喩えたもの)という禅語もあります。「獅子窟」と「獅子吼」、様々な獅子に導かれ今日の私がありますが、「果たして今の私は優れた僧に育っているだろうか」と問い直している今日この頃です。

新山 玄宗(愛媛・福成寺住職)

【解説】獅子……香取 芳德(花薗大学学生)