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「【解説】目連尊者」

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 目揵連の略称で、サンスクリットでは、マウドガリャーヤナ、モッガラーナ。讃誦という意味。釈迦十大弟子の一人に数えられ、神通第一(神通力が最も勝れた人)と称される。
 摩竭陀(マガダ)国の王舎城外で婆羅門(バラモン)の家に生まれた。隣村ナーラダで婆羅門の家に生まれ、同じく十大弟子の一人に数えられる舍利弗尊者とは、幼いころより親交があり、人々が遊び戯れている姿を見て無常を感じ、ともに出家した。

 当初、500人の仲間とともに、六師外道(仏教以外の六人の哲学者)の一人であるサンジャヤ・ベーラッティプッタに弟子入りをした。サンジャヤは、哲学用語でいう懷疑論者であり、基本的原理や認識、常識とされるような共通概念に対して、その普遍性や客観性を検討し、根拠をもたない判断を排除して明確な判断を避ける、一つの高度な哲学体系を説いていた。しかし、目連と舍利弗はこれに満足せず、あるとき、舎利弗が阿説示(アッサジ)から釈尊の教えを聞いて、これを目連に伝えたことを機に、多くの同門を引き連れて釈尊のもとに弟子入りした。後に目連と舍利弗は、阿羅漢果(初期仏教が定める最高のさとり)を得て、釈尊の弟子の中でも最も親任を得る高弟となった。

 目連尊者は、施食会の起源となる故事を残している。『盂蘭盆経』によると、ある日、神通力によって、亡き母の死後の行方を探っていたとき、母がわけあって餓鬼道に堕ちていることを知る。目連は釈尊にこのことを話し、母を救う方法を尋ねたところ、釈尊は「雨安居(うあんご)が終る日(7月15日)に、衆僧に飲食百味を供養すれば、母は救われるであろう」と説かれ、目連はこの教えに従って衆僧を供養したところ、その功徳と衆僧の神力により、目連の母は餓鬼道の苦しみ解放されて、天界に上ったという。

 ちなみに、施餓鬼の起源は、『救抜焔口陀羅尼経』に説かれる阿難尊者の故事によるもの。すなわち、あるとき阿難が坐禅をしていると、目の前に焔口(えんく)という餓鬼が現れ、「お前は三日後に死に、醜い餓鬼に生まれ変わるであろう」と言った。そこで阿難はこれを免れる手段を餓鬼に問うたところ、餓鬼は「我々のように餓鬼道にいる衆生をはじめとして、あらゆる苦しみを受けている衆生に飲食を施し、仏・法・僧の三宝を供養すれば、自分も餓鬼道の苦しみから脱することができ、お前の寿命も延びるだろう」と言った。しかし、苦しむ全ての衆生に施すことは不可能である。そこで、阿難は釈尊にこのことを話したところ、釈尊は『加持飲食陀羅尼』の神通力により、供養した飲食は無量の数となって一切の餓鬼の空腹を満たし、無量無数の苦難を救って、施主の寿命もまた延び、その功徳によってついには仏道を証得することができることを説いた。阿難は教えられたとおりにすると、阿難の延命したという。
 これら目連と阿難の故事が、現在、盂蘭盆(お盆)に行う施餓鬼の起源となっている。

 目連は、神通力に勝れ、釈尊の説法を妨げたり、その身に危害を加えようとする邪魔外道(異端者)、鬼神や毒龍などを降伏、追放した。そのため、少なからず恨みをかうこともあり、異教徒からの迫害を受けることもあり、ときに暗殺されかかったこともあった。竹林外道(執杖梵士)から暴力を受けて瀕死の状態になったとき、親友の舍利弗は、「一緒に出家し、仏弟子となって証悟したのだから、滅するときも一緒だ」と言ったという。
 目連と舍利弗は、釈尊の法を嗣ぐことのできる弟子と目されていたが、釈尊よりもさきに遷化した。
 世界文化遺産に指定されているサーンチー(デリーの南方約 580km、マディヤ・プラデシュ州)の第三ストゥーパは、舍利弗と目連の舎利(遺骨)がおさめられた仏塔である。現在、彼らの舎利は、近くの丘の上のビハーラに祀られている。

《法話》目連尊者……豊岳 慈明(岡山・豊昌寺住職)