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「〔法話〕寂かな心」

 十五日は涅槃会(ねはんえ)です。釈尊降誕の四月八日、お成道の十二月八日とともに三大仏会(え)として、わたしたち仏教徒が最も尊んできた日です。当日寺院の多くは涅槃図をかかげて厳粛な仏事をいとなみます。涅槃図を拝すると横臥された世尊は多くの弟子や信者にとりかこまれ、常隨の阿難尊者の如きは失神して倒れたままです。沢山の動物たちも泣き悲しんでいます。経典によるといよいよお亡くなりになるとき、沙羅双樹は時ならざるに花咲き、虚空より香華が如来の御身に降りそそぎ、微妙な音楽が天の方より聞こえてきたといいます。その時最後のご垂訓がなされたのです。
 「アーナンダよ、汝らは今、法と隨法とによりて住し、法によりて行ずべきであると、かように学ぶべきである」と。
 世尊は私たちに本当の如来供養の道とは、仏前に香華をささげ読経するだけでなく、法を学び法に隨って実践せよと教えられたのです。この時世尊はわたしたちに毎日が仏教生活でなければならぬことの大切さをとかれたのです。
 涅槃はもともと梵語のニルヴァーナで、吹き消した状態をいい、煩悩の火を焼きつくして智慧が完成するさとりの境地をさすことばですが、釈尊のご入滅をも意味します。
 人間は余りにも多くのものをもちすぎ真実の自己を見失っているのです。もちすぎるとは物だけに限りません。情報過多で精神的にももちすぎ、貪瞋痴(三毒)の苦しみと自己保全の迷妄が起きるのです。世尊は人間はみな「むさぼりの火で生老病死の炎が燃えさかっている」といわれます。ご自身はその燃えさかる炎を吹き消して涅槃に住されました。涅槃寂静という教えがあります。このことは決して燃えさかる煩悩の炎を吹き消して観念的な寂静の世界に逃げこむということではなく、煩悩を転じて菩提にするという積極的な解脱(げだつ)の実践が出てこなければならないということなのです。
 涅槃会を機に私どもの中に埋れている自らの仏心をたずね、菩薩の実践行に精進いたしたい。かくて仏教が真の意味の生きる力となるのです。

佐々木 瑞昌(大分・西白寺先住職)