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「〔法話〕尊きいのち」

 便利な時代になったものです。パソコンを使用するようになってから数年、使いこなすまではいかないまでも、それなりに役立っています。たとえば、インターネット、さまざまな情報を瞬時として得られ、とても便利です。大学図書館の蔵書閲覧や美術館、博物館所蔵の絵画なども鮮明なデジタル画像で鑑賞できます。しかし反面、何か心に引っかかるものもあります。
 以前、インド仏蹟巡拝旅行でクシナガラの釈尊涅槃の地に参拝したときのこと、沈む夕日に映された堂内の涅槃像にぬかずいて読んだ遺教経……。その旅で得た体験は、私の中で血となり肉となり、いまでも生き続けています。そのときの心を揺さぶるような感動は、いかに鮮明であってもパソコンのモニターに映し出された映像との出会いでは得られないでしょう。ただし、実際に現地に足を運んでも悪天候や状況により、逆にがっかりしたこともありましたが、現実の世界は思うにまかせないものです。
 ところで、世の中がアナログからデジタル化へと変化するなかで自分の存在感が希薄になり、いのちが軽んじられてきたように思います。自分の存在感の希薄さは、死への軽やかさにもなるのでしょうか?日本で年間三万人を超える自殺者が出ている現状が、そのことを深刻に物語っています。
 釈尊は二月十五日、八十歳にて入滅されましたが、亡くなる直前まで病で痛む、老いたからだをいたわりながら教えを説かれました。そして、弟子の阿難を伴って生まれ故郷を目指し最後の旅に出ます。途中、ヴァイシャーリーという町に立ち寄り、木々の生い茂る小高い丘から象が振り返るがごとく、その美しい町を眺めておられます。それは山川草木、生きとし生けるすべての尊きいのちを慈しむようにゆっくりと……。
 現在、あまりにも軽んじられるいのちを憂うとき、「この世でただ一人の存在である自分」が、いま生かされている不思議に気づき、そのいのちを輝かせることを誓う涅槃会でありたいと切に願います。

栗原 正雄(広島・正法寺住職)