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「〔法話〕涅槃会・西行・明恵」

 二月はお涅槃の月、やはり西行の歌が思い出される。

  ねがはくは花のしたにて春死なむ
       そのきさらぎの望月(もちづき)のころ

 きさらぎと言っても旧暦のことだから、太陽暦ならばだいたい三月末頃に当る。釈尊のお涅槃はその日、望月は満月、二月十五日ということである。

  花ちらで月はくもらぬ世なりせば
       物を思はぬわが身ならまし

 と桜に心をときめかす歌人はまた、釈尊を恋慕した出家者でもあった。願いのごとく建久元年(一一九〇)二月十六日、弘川寺という、花の美しい寺で七十三歳の生涯を閉じた。
 釈尊を恋慕したということになれば栂尾(とがのお)の明恵上人ほどにその志を抱いた方はなかったであろう。自らを釈尊遺愛の子と称し、実行はできなかったものの、しばしば天竺への旅を企てたりされた。

  遺跡(ゆいせき)を洗へる水も入海(いるうみ)の
       石と思へばなつかしき哉

と詠まれて紀州の鷹島(たかしま)の渚の小石を生涯、身から離さず愛撫されたという。
 西行と明恵は同時代人で奇しくもこの二人は、一夜、相い逢うて歌談を交わしたと、明恵の伝記は記している。西行は自分の歌は、「是れ如来の真の形体なり、されば一首読み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ」と語ったという。
 明恵は貞永元年(一二三二)正月十九日にその生涯を閉じるが「『其の期(ご)近付(ちかづき)きたり、右脇(うきょう)に臥(ふ)すべし』とて臥し給ふ。(中略)面貌(めんみょう)歓喜の粧(よそほひ)、忽ちに顕はれ、微笑を含み、安然として寂滅し給ふ」(伝記)と記されており、釈尊のお涅槃に順じて「頭北面西」にして示寂されたのである。
 涅槃会に因んで、西行と明恵という純一無雑に釈尊を恋慕しつくした二人の仏者のことを、思わずにはいれないのである。

竹中 玄鼎(静岡・平田寺先住職)