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「〔法話〕人の音せぬ暁に」

 春華方開(しゅんかほうかい)。冬の厳寒を忍んできた蕾の開花する音が、至るところから響いてくるような、まだまだ息も白む早春での風景です。
 平安末期に後白河法皇が編んだ「今様(いまよう)」と呼ばれる歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には
   仏は常に在(いま)せども
   現(うつつ)ならぬぞあはれなる
   人の音せぬ暁に
   ほのかに夢に見え給ふ
と詠われています。蕾の開花する音を聴き、仏の姿を看ようとは「ほのかに夢に見え給ふ」刹那の幻との遭遇なのかも知れません。
 二月十五日は、お釈迦さまがお亡くなりになった涅槃の日です。涅槃とは、煩悩の炎が吹き消された心のさまであり、そこには「人の音せぬ暁」のような雑念のない底をつく清浄な静寂さを予感させます。

 汝等(おんみら)よ、吾が終わりすでに近づき、とわの別れ目前に逼(せま)れり。されどいたづらに悲しむことを止めよ。滅びるものは壞身(えしん)に外ならず。眞の仏はさとりの智慧にして、永久(とわ)に生き存(ながら)えん。
 吾が壞身を見るものは吾を見るものに非ず、正法(さとり)に目醒むるものこそつねに吾を見るものなり。〈『遺教経(ゆいきょうぎょう)』〉
と、沙羅の林で横臥されたお釈迦さまが、別れを惜しみ泣き崩れるお弟子さんたちに最期の教えを遺されました。その日のできごとの様子は、涅槃会に本堂に掲げられる「涅槃図」にも詳しく伺い知れます。
 私は、この『遺教経』をお通夜の席でお唱えします。お釈迦さまの言葉として綴られた経文ですが、それは、まさに今ここで大切な亡き方が、私たちに向けてのメッセージとして受け止めたいからです。世の移ろいに逆らえない最期のときを、我が身を以って示されたお釈迦さまの姿は、そのまま大切な方の姿そのものです。
 お弟子さんたちが亡骸に名前を呼びかけようにも返事は返ってきません。しかし「私は、おまえさんたちの手の届かない、遠い存在になってしまったわけではないよ」と、お釈迦さまがやさしく諭されています。
 『梁塵秘抄』に詠われた「人の音せぬ暁」のように、深い深い静寂さに静まりかえった心境が「ほのかに夢に見え給ふ」ことだけにも、そっと掌を合わせさせるのです。この安らぎを「正法に目醒むるものこそつねに吾を見るものなり」と、故人は最期の教えとして私たちに遺して頂けたのです。

足立 宜了(岐阜・正覺寺住職)