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「《法話》阿難尊者 1」

行解相応(ぎょうげそうおう)~外から学び、内から育む~

 二十五間、お釈迦様の傍で説法を聞き、「多聞第一(聞くことに最も優れる者)」と呼ばれる大弟子のひとりに数えられた阿難尊者ですが、実はお釈迦様の生前には、お悟りを開くに到りませんでした。そんな阿難が、お悟りを開くに到るきっかけとなったエピソードがあります。
 お釈迦様がお亡くなりになられた後、阿難は昼夜説法会を開いておりました。その為、阿難は、坐禅の時間もとれぬほど多忙な日々であったそうです。それを見かねたある修行者が次のような偈を示しました。

  樹下にいて思うを凝らせば
  心、涅槃にゆかん
  禅、放逸なるなかれ
  多く説くも何かあらん

 放逸とは、怠けること、疎かにすることを意味しますが、ここでは特に教えを説くことに重きを置いていた阿難に、坐禅修行に励めと示しています。この偈を機に阿難は心を入れ替え修行に励み、お悟りを開いたといわれております。
 「行解相応(ぎょうげそうおう)」という仏教語があります。仏教の智慧の学びも、坐禅などの修行もバランス良くしないと、仏道修行は円満な形にならないことを意味しております。では、なぜ学びだけでは足りないのでしょう。
 昔、中国の唐代の白楽天という詩人が、道林和尚という禅僧に「仏法の真髄とは何ですか」と質問すると、「諸悪莫作・衆善奉行(悪いことをするな、善いことをせよ)」と道林和尚は答えます。白楽天は、「そんなことは、三歳の子供でも知っていますよ」と言い返しますが、道林和尚は「三歳の子供が知っていても、八十の老人すらこれを実行することはむずかしいですぞ!」と応じたという逸話が伝わっております。
 頭で理解出来ていることが、なかなか実行に移せないのが私達人間です。
 例えば、電車やバスでお年寄りが立っていたら、私達には席を譲ろうかなという気持ちが少なからず湧いてきます。人間には、人さまに優しくできる仏さまの心が、生まれつき具わっています。しかし、そう思ってもすぐに行動出来ない時があります。恥ずかしいという気持ち、誰かがやってくれるのではないかという気持ちが、純粋な優しさの邪魔をします。
 そんな邪魔な気持ちを働かせないように、困っている人にサッと手を差し伸べることが出来るように、心を生まれたままの綺麗な状態に調えていく、心を育くむ訓練法のひとつとして禅が勧めるのが坐禅です。
 せっかく仏教の智慧を学んでも、頭で理解しただけでは、仏教を学んだ価値が半減してしまいます。外から学んだ智慧と、内から育む心、この二つが組み合わさり、智慧が日常生活のあらゆる場面で手足の動きとなって現れてこそ、仏教が活き活きと生きてくるのです。

小澤 泰崇(山梨・義雲院副住職)

【解説】阿難尊者……北政 十郎(花園大学学生)
【法話】阿難尊者2……木村 宗凰(広島・觀音寺副住職)