えんざん こうがくじ
塩山 向嶽寺


概略

 向嶽寺は山号を「塩山(えんざん)」と称します。山梨県塩山市に所在し、甲府盆地の東北部に 、こんもりと突き出た小高い山の南麓に抱かれるようにたたずんでいます。
この山を『志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく』と古今和歌集に歌われた塩山市の象徴「塩の山」と言い、塩山市と言われる地名はこの山の名に因んでいます。
中門と築地塀 JR中央線塩山駅から住宅街を通り、15分程歩くと寺の外門に到ります。外門を通り抜けると、両側を杉木立ちに覆われ100メートル程まっすぐな参道が続きます。正面には中門と称される総門が行く手を遮ります。室町時代の建造物で、向嶽寺は開創以来幾度もの火災に遭遇し、山内のほとんどの伽藍を消失していますが、この中門だけが残って、室町時代の禅宗様四脚門の代表的遺構として国の重要文化財の指定を受けています。檜皮葺き(ひわだぶき)で彩色や装飾要素がなく切妻屋根の簡素な造りです。また、この門の東西には漆喰(しっくい)製、瓦屋根の築地塀(ついじべい)が配されています。由来によれば、この付近の岩塩から「にがり」をつくり、漆喰に混ぜて築地を強化したと伝えられ、「塩築地」とも称されています。主要建物が南北一直線上に配置されている伽藍の配置上、見透かしを避けるために設けられたものと考えられ33.5mあります。
放生池 この中門は通常開かれることはありませんので、塩築地の東端にある通用門より境内に入ることになります。赤松や杉、檜の木に囲まれた放生池(ほうじょういけ)が目に入ります。瓢箪(ひょうたん)のような形をしていてその丁度くびれの部分に木の橋が架かり、その先に三門跡の礎石が残り、仏殿に到ります。この仏殿は天明6年(1786)の大火災後の再建建造物で「由緒記」によれば、「合棟仏殿開山堂、号して祥雲閣」と記されています。「合棟」つまり仏殿と開山堂を合わせ建てているものです。通例の禅宗仏殿とは異なった意匠による複合建築と言えます。
この仏殿・開山堂の東側に昭和42年(1967)再建成った庫裡。そして仏殿と庫裡の間を進むと再び閉ざされた門・方丈前門(仮称)に到ります。この門をくぐると平成9年(1997)向嶽寺一派の悲願の成就した方丈、書院を目の当りにすることができます。
新築なった方丈を目にしたならば、是非とも方丈裏手に足を運んで頂きましょう。
塩の山南麓斜面に作庭されている庭園です。平成2年(1990)に発掘調査が行われる前まではほとんど埋没した庭園で手を入れられていなかったために、ほぼ原形に近い状態で発掘、修復工事が行われました。平成6年(1994)国の名勝に指定されました。
庭園は方丈からの眺めを主目的に造られ、庭園正面上部の高さ2mを超す「三尊石(さんぞんせき)」をはじめ、上段池泉に注ぐ二ヵ所の滝石組、下段池泉の滝石組など、優れた景観を呈しています。つまり、かつては石に沿って水が流れていたのです。
山梨県に残る古庭園の典型として、さらに発掘調査の成果を基盤とした日本の伝統的庭園の歴史を伝える学術資料としても重要視されています。

開山・歴史

抜隊得勝(慧光大円禅師)
向嶽寺の開山は抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師〔慧光大円禅師〕です。禅師は鎌倉幕府が滅亡する直前の嘉暦2年(1327)10月6日、相模国中村(神奈川県足柄上郡中井町)に生まれました。父の姓は藤氏と伝わります。禅師は4歳の時に父を失いますが、その三回忌に供物を供えるのを見て、亡くなった父はどうしてこの供物を食べるのだろうと素朴な疑問を抱いたと言われます。このことについて後年抜隊禅師は、「少年より一つうたがいおこりて候ひし。そもそもこの身を成敗(裁くこと)して誰そと問えば我と答えるものはこれ何物ぞ。」(『塩山仮名法語』)と疑ったと述べられています。
この疑いが深くなるにつれて出家しようとの志が深まり、ついに正平10年(1355)29歳の正月「衆生を度し尽くして後に正覚を成ずべし。」と決意されます。この決意は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の大願と同じで極めて注目すべきことです。
出家された抜隊禅師は中国僧・明極楚俊(みんきそしゅん)の高弟(特に優れた弟子)で出世を嫌って山中に庵居していた得瓊(とっけい)を訪ね、自己の心境を披瀝(ひれき)し同じく山居修行を続け、やがてさらに心境が深まるにつれその究めたところをしかるべき師に証明してもらおうと、鎌倉・建長寺に肯山聞悟(こうざんもんご)を、常陸に復庵宗己(ふくあんそうこ)をというように各地を遍歴し正平12年再び得瓊の下に帰ります。13年得瓊の勧めで出雲・雲樹寺に孤峯覚明(こほうかくみょう)を訪ね修行を始めましたが、僅かに60日、その悟りの境地が認められついにその印可を得ることになります。孤峯は千挙を群といい万挙を隊というとして禅師に「抜隊」の道号を授けました。孤峯の法を嗣(つ)いだ抜隊禅師は近江の永源寺に寂室元光(じゃくしつげんこう)を、また能登の曹洞宗・総持寺に峨山紹碩(がさんじょうせき)を訪ねるなど各地を遍しました。その後も伊豆・相模の山中に庵居され、永和2年(1376)には武蔵横山(現八王子市)に移り、さらに永和4年(1378)には以前から志していた甲斐に入り高森(塩山市竹森)に庵居することになります。高森には禅師を慕って800人にも及ぶ僧俗が参集したといいます。ところで、昌秀庵主という人がいて、深く禅師の徳風を慕っていました。昌秀庵主は抜隊禅師の住む庵が風当たりが強く、山道が険しい所にあったため、教えを受ける者たちが苦労しているのを見て、時の領主・武田信成(のぶしげ)に要請して、塩山の地を寄進させ、康暦2年(1380)正月に「塩の山」の麓に庵を創建し抜隊禅師を招き入れています。抜隊禅師54歳の時でした。この庵は、かつて抜隊禅師が近江にいた頃、夢に富士山を見、今、塩山にいて目の前に富士山を眺めていることにちなんで「向嶽庵」と称されました。寺号をつけなかったのは抜隊禅師が道行のすたれることを心配し、修行を専一にという考えによります。
抜隊禅師は初発心時のお考えのごとく、まさに泥まみれになって僧俗の教化に努められました。至徳3年(1386)に上梓された『和泥合水集』は衆生を教化救済するためには、泥まみれ、びしょぬれになることをいとわないことを書名としています。また遠隔の地の人々からの質問に手紙で懇切に答えられた『塩山仮名法語』もあります禅師は至徳4年(1387)2月20日、端座して周りの弟子たちに向かって、「端的(たんてき)是(こ)れ什麼(なん)ぞと看(み)よ、什麼(いんも)に看ば必ず相い錯(あやま)らざらん」と2回にわたって声高に告げ、灯火が消えていくかのごとくに寂したといいます。61歳でした。
その後、天文16年(1547)6月、甲斐の実権を握った守護・武田信玄の朝廷への働きかけによって抜隊禅師に「慧光大円禅師」の諡号(しごう)を賜ることになります。

伽藍・宝物

中門(重要文化財)・築地塀(県指定文化財)
四脚門切妻造り、室町時代。門の左右に延びる築地塀(ついじべい)は県の指定文化財。

仏殿兼開山堂(市指定文化財)
 仏殿と開山堂が一体となった独特の建物。天明7年(1787)に再建されたもの。仏殿の本尊は釈迦如来像。本尊より後ろが開山堂。
庭園(名勝)
方丈裏にある庭園。桃山時代から江戸時代初期の作庭と推される。背後の塩の山の斜面を巧みに利用し、かつては水を流した流水形式の池泉観賞式の庭園であったとみられ、現在は鮮やかな緑の芝生と雄大な石組みを残している。
方丈・書院
 大正15年の火災により焼失。以来平成2年に再建に着手。平成9年落慶。方丈本尊には京都の大仏師・江里康慧師作の聖観世音菩薩像が安置されている。
絹本著色達磨図(国宝)
 宋画の影響を受けた鎌倉時代の日本人画家の筆になる作品。建長寺開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が朗然(ろうねん)居士のために書いたといわれる賛が入る。
絹本著色大円禅師頂相(重要文化財)
 開山・抜隊禅師の姿を描いた図。画の作者は不詳。賛は傑叟自玄(けっそうじげん)が、抜隊寂して6年後の明徳4年(1393)に書いたもの。
絹本著色三光国師頂相(重要文化財)
 作者不詳。室町時代の作とされる。開山禅師の師である孤峰覚明の姿を描いた図。

交通案内

所在地・・・〒404-0042 山梨県甲州市塩山上於曽2026
電 話・・・0553−33−2090
交 通・・・JR中央線「塩山」駅下車、バスで約20分。