開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である北條時宗・貞時・高時をおまつりしてあります。時宗公は1284年(弘安7年)4月4日に亡くなられています。つまりは円覚寺が建立されてから2年後のことです。開山国師は時宗公の死を大変悲しまれ、公の人徳を称えられた法語は佛光録に記されています。
時宗公が亡くなられ後に開基廟が建立されたようですが、現在の開基廟は江戸時代1811年(文化8年)に改築されたものとされています。その折、三橋家によって三体の尊像が修理されています。「新編相模風土記」によればお堂の下に各遺骨を納めた石櫃があるとの伝えがしるされています。
毎年4月4日ここで開基祭が行われます。また四日会というお茶会が開かれています。−まつられている三像について−
○ 北條時宗公について
時宗公は1251年(建長3年)に生まれ、文永5年18歳で執権に就任、同11年、1274年文永の役がおこりました。
父北條時頼の影響もあって、中国から招いた無学祖元禅師を師として参禅に励んでいました。文永・弘安の蒙古襲来という国難に立ち向かった執権時宗公は、金剛経・円覚経を血書し国師に奉納しました。
国師は時宗公の熱意に打たれ、「この般若の力を念ずれば、必ず勝利を得ることが出来る,」と励まし、「莫煩悩」の3字を書き与え、勇猛心を奮起させました。
この国師の激励があってこそ、時宗公が奮起し、日本軍を振るい立たせ蒙古軍を撃退させたのです。
この時宗をたたえ、昭憲皇太后は
あだなみは ふたたびよせず なりにけり
鎌倉山の 松のあらしに
とうたわれました。この歌は現在廟所の中に額に飾られています。
蒙古軍を撃退した時宗公は戦死者を敵味方区別なく(冤親平等)弔うため、また国師に鎌倉にとどまって禅をひろめて欲しいという願いもあって、弘安5年12月8日時宗公は円覚寺を開創し、落慶開堂を行いました。
その2年後34歳の若さで亡くなられました。
法名は 法光寺殿杲公大禅定門。
開山国師は時宗公が亡くなられた事を悲しまれ、自悼の詩に
法の為に人を求めて日本に来る
珠回り玉転じて荒台に委す
大唐沈却す孤筇の影
添え得たり扶桑一掬の灰
とあります。 時宗公夫人は国師について得度、潮音院覚山志道尼と号し東慶寺を開山しました。
○ 北條貞時公について
時宗公の子で、父の死によって弘安7年(1284年)14歳の時執権職につきました。北条一門の権力を強め、幕府の政治を掌握しました。 時頼・時宗公と同じように深く禅宗に帰依し、特に来朝僧一山一寧に参禅し、円覚寺の第7世住持にむかえました。
貞時は父時宗の志をついで大檀那となり、円覚寺に洪鐘を造って国家の安泰を願いました。これが佛殿横高台にあります国宝の洪鐘です。
また「禅院制府」というものを定め、禅僧(修行僧)たちの規律をつくりました。これは円覚寺古文書のなかにありに重要文化財に指定されています。この規則には大変興味深いものもあります。例えば女性が寺に入ってよい日はいつとか、僧侶の外出の規制とか、かなり厳しい束縛があったようです。
貞時の時代には円覚寺僧侶の人数が二百人にのぼり、寺が栄えた事がうかがわれます。
1311年(応長元年)40歳の生涯を閉じられました。 法名、最勝園寺殿演公大禅定門。 ○ 北條高時について
貞時公の子で、禅宗に深く帰依し、この佛日庵で貞時13回忌を盛大に執り行った記録が、古文書に記されています。
現在は残っていませんが、このころに法堂が建立されています。
高時公は南山士雲禅師や夢窓國師(夢窓疎石)に参禅されました。そして高時公は夢窓国師を鎌倉幕府滅亡の時代に住持としてむかえました。国師は後醍醐天皇や足利氏の信任が篤く、国師のご人徳と尽力によって円覚寺は戦乱から逃れ、寺を護持することができました。
法名、日輪寺殿鑑公大禅定門。
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