
花園法皇は宗峰妙超に参禅し、印可(弟子が悟りを得たことを師が認可すること)されています。関山慧玄も宗峰妙超の法を嗣がれます。宗峰妙超は、大燈国師で知られる紫野大徳寺の開山です。
建武4年(1337)、宗峰妙超は、病に伏し重態となられますが、花園法皇の求めに応じて、宗峰妙超没後に花園法皇が師とされる禅僧に、弟子の関山慧玄を推挙され、また、花園法皇が花園の離宮を禅寺とされるにつき、その山号寺号を正法山妙心寺と命名されます。その年の12月22日、宗峰妙超は亡くなられました。妙心寺では、この建武四年を妙心寺開創の年としています。
花園法皇は、妙心寺のそばに玉鳳院を建てられ、そこから関山慧玄に参禅されます。暦応5年(1342)になりますと、花園法皇は仁和寺花園御所跡を関山慧玄にまかせられます。これで妙心寺の寺基が定まるのです。
貞和3年(1347)7月22日、花園法皇は妙心寺に寄せる熱い思いを「往年の宸翰」にしたためられ、翌貞和4年11月11日、世を去られます。五十二歳の生涯でした。
花園法皇が世を去られて三年、関山慧玄は、雲水の指導に専念されますが、延文5年(1360)12月12日に亡くなられます。風水泉わきの老樹の下が、息をひきとられた場所です。装いは行脚の旅姿であったと伝えられます。遺骸が葬られた処、それが開山堂微笑庵の地です。
やがて、妙心寺は、寺号を龍雲寺と改名されます。妙心寺の寺名が消えるのです。妙心寺開創50年を経た頃のことで、開山没後わずか39年後の事です。没収されて34年、その間の事は不明です。龍雲寺と名をかえた妙心寺は、永享4年(1432)春に返されてきます。尾張犬山の瑞泉寺から上京した日峰宗舜が、荒れた開山塔の地を整え開山堂を建てます。ここに妙心寺の中興がなるのです。
戦国期の妙心寺は、発展への大きな転機を迎える時代です。妙心寺の境内地が今日のように広くなるのは、永正6年(1509)のことです。利貞尼という人が、仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進されたからです。
そこには、やがて七堂伽藍が建てられます。また、塔頭も創建されていきます。とくに、塔頭では、龍泉庵、東海庵に加え、大永3年(1523)に聖澤院、大永6年(1526)には霊雲院が創建されます。これで、四派四本庵による妙心寺の運営体制が確立するのです。四派とは、龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派をいいます。四本庵は龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖澤院のことです。
明治元年(1868)、神仏分離令が発布されます。各地で廃仏毀釈が起こり、寺院の取り壊し、仏像、経典などが破棄されます。妙心寺もその影響を受けますが、この明治期は、宗議会など今日に至る妙心寺の運営体制の基礎が出来ます。また妙心寺専門道場が設けられたり、今日の花園大学、花園高等学校の前身となる般若林が開設されます。
大正を経て昭和10年(1935)、妙心寺は開創六百年となります。その後の昭和・平成期の妙心寺は、開創七百年への歴史を刻む時代です。
この期には、禅の大衆化や教化活動の促進がはかられ、各地での坐禅会開催、「生活信条」や「信心のことば」の制定、おかげさま運動も起こされます。また、僧風の刷新にもとりくまれます。これらは、記憶に新しい事です。
もう一つ、この期には、防災や諸堂の保存修理など文化保護の事業も進められます。
今日、勅使門、三門、仏殿、法堂、庫裡、開山堂、大方丈、小方丈、浴室、経蔵、塔頭天球院の玄関・方丈、衡梅院方丈、霊雲院書院などをはじめ多くの重要文化財の指定建造物、玉鳳院、東海庵、退蔵院、霊雲院、桂春院などの史跡・名勝指定の庭園などがよく保存されています。また、史跡・特別名勝の指定をうける龍安寺が、ユネスコ世界文化遺産に登録されてもいます。
このように、妙心寺は、関山禅の伝灯を堅持し、臨済宗最大の大本山として展開し、且つ美しい寺観を呈している禅寺なのです。