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十牛図 -もうひとつの読み方-

商品番号
jyugyu_eshin
2,530 円(税込)
数量:
西村惠信(禅文化研究所長・花園大学名誉教授)著
平成20年6月25日発売
46判上製・320頁
ISBN978-4-88182-237-1 C0015

生き方のヒントに。
誰もが歩む人生行路の諸段階として「十牛図」を読む。
自分の人生と重ね合わせ、自己の課題として受け取りなおしてほしい。


 道を歩く歩き方には、必ずしも目的地へと急いで歩くことばかりではありません。特に『十牛図』の童子のように、家をさまよい出たものは、一歩一歩が真実を求めての足取りですから、決して最終目的があって、そこへ急ぐ歩みではありません。そこにこの、「さすらい歩き」の独特の意味があるわけです。
 特定の終着点というもののない「さすらい歩き」は、決して急がない、ということが特徴です。そういう意味では、一歩一歩が目的地であるということもできましょう。『臨済録』にいう、「途中に在って、家舎を離れず。家舎を離れて、途中に在らず」というような歩み方ですね。「行く先が わが家なりけり かたつむり」、というようなものです。(本文より)
*画・西村惠信



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十牛図-もうひとつの読み方- もくじ
はじめに
さまざまな牧牛図
なぜ牛なのか
牛になりたかった禅僧
十牛図の読み方

Ⅰ、尋牛の章――迷うことのできる人間
迷いへの出発
シッダルタの出城
人間に成るということ
閉じこもりの世代
未知への旅立ち
なぜ世界に出かけるのか
あこがれの本質
遠方はわが内にあり

Ⅱ、見跡の章――さすらいの道
迷いの道に咲く花
仏教から仏道へ
家と途中と
仏道という道
学道ということ
歩々これ道場
人生という道
経験と個人
人生の最先端に立つ
花が私を創る

Ⅲ、見牛の章――骨身を削る
見当をつける
大信根を抱く
身体と心
感性の復権
見るということ
花となって見る
祈りと労働
体得ということ
聖書の身読

Ⅳ、得牛の章――悟りとの戦い
荒れ狂う牛
自己との戦い
坐禅と悟り
頓悟と漸悟
サトリの話
二つの悟り
舎利弗の告白
何を得るか
盤珪の不生禅
到り得、帰り来れば別事無し

Ⅴ、牧牛の章――悟りを超える
悟後の修行
母であることは難しい
聖胎長養
小隠と大隠
根本智と後得智
悟りの個体化
悟りの伝達
百尺竿頭、進一歩
向上の一路

Ⅵ、騎牛帰家の章――遊戯の世界
家路につく
豆腐の悟り
ニーチェの超人
子供の精神
人間と遊び
ホモ・ルーデンス
宗教と遊び
遊びの主体性
禅者の詩境
風狂と大愚
良寛和尚奇話

Ⅶ、忘牛存人の章――真実の自己
忘れるということ
老夫婦の愛
まわり道
葉落ちて根に帰す
帰りなんいざ
東洋的霊性と大地性
一無位の真人
心法無形、十方に通貫す
跡を晦ます
格外の人

Ⅷ、人牛倶忘の章――円相の世界
一円相の輪のあらばこそ
迷いも悟りもない
円相と牛
円の本質
禅僧たちの円相
思想としての絶対無
東洋的無
生死一如
四智円明の月
無一物中無尽蔵
本来の面目

Ⅸ、返本還源の章――自然に返る
自然を見る眼
美しき天然
眼だけが残る
現代科学の自然観
仏教への関心
自然をそのままに見ない人間
耳で見、眼で聞くということ
雨だれの音
ヘンリー・ソローの雨
骨もまた清し

Ⅹ、入廛垂手の章――人間は関係である
灰頭土面で街頭へ
市中の隠者
良寛のように
無縁の大悲
二人の自己
人間は関係である
自然との関係
他者との関係
自己自身との関係
絶対他者との関係

附・再録「わたしの十牛図」
家舎を離れて――第一、「尋牛」
禅寺と聖書――第二、「見跡」
迷いの路に咲く花――第三、「見牛」
自己愛とのたたかい――第四、「得牛」
哲学と宗教――第五、「牧牛」
仏の背に騎る――第六、「騎牛帰家」
老作家の涙――第七、「忘牛存人」
悪徳ばなし――第八、「人牛倶忘」
自然があった――第九、「返本還源」
めぐりあい――第十、「入鄽垂手」