更新日 2010/04/01 |
禅語一覧に戻る |
『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』 (細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より |
「絮」とは柳の木に付くネコの尾のような花のことで、またこれを“いと”ともいいます。雨は降らねど、やはり花は散っていきます。風は吹かずとも、柳の絮は自然に飛んでいきます。咲いた花は必ずしも雨や風のために散るとは限りません。咲いたからには、いつかは散らねばなりません。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響ある。 主人と住家と、無常を争い去るさま、いはゞ朝顔の露にことならず。或いは露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし。 昨日は既に飛び去った鳥であるクヨクヨ思いまどうまい 価値ある今日の一点の連続が一生を構成するのです。今日の一日が欠けたら、自分の一生を失ってしまいます。 徳川家康と関ケ原で戦って敗れた石田三成は、生け捕りにされます。打首の刑に処せられるために唐丸籠に乗せられて京都に護送されます。その途中、三成はたいへん渇きを覚えて、「咽喉が乾くから湯を飲ませてくれ」と役人に頼みます。役人は、「途中であるのでそんなことはできない。幸いここに柿があるので、これをあげよう。これを食べれば少しは渇きが止まるだろう」と親切に一個の柿を差し出します。と三成は、「柿はいらぬ、痰に悪いから私は食わぬ」と拒否します。役人たちは笑って、「今、京都に首を刎ねられにゆくことを知っているのだろう。もう貴様の命もあとわずか、それなのに柿は痰の毒になるから食べぬというのはおかしいではないか」といいます。しかし三成は、「たとえ目前に死が迫っていようとも、一瞬一瞬を大切に生きるのだ」と答えたといわれています。 首を刎ねられ三日間も晒し首にされるような死に方をしても、三成自信は真実、充実した人生を送ったと満足していたのではないでしょうか。もし三成がこの句を知っていたならば、恐らく首を刎ねられるとき、「雨ならずして花猶お落つ、風無くして絮自ずから飛ぶ」と静かに吟じて、死についたのではないでしょうか。 私たちも、花なお落ち、絮自ずから飛ぶ時節がやってくるかもしれません。用心!用心! |