名利共休

禅 語

更新日 2010/01/01
禅語一覧に戻る

名利共休
みょうりともにきゅうす

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より

 名利とは名聞利養(みょうもんりよう)の事で、名聞とは名誉が世間に広がる事、利養とは財を追い求める事、休すとは休止の意で断ち切る事。
 財欲、名誉欲、色欲、食欲、睡眠欲等、人間の欲望には色々あります。しかし、煎じ詰めれば名誉欲と財欲、即ち金銭欲に代表されます。それを断ち切れと云うのです。
 曹洞宗の永平寺の開山、道元禅師は、

人は思い切って命をも棄て、身肉(しんにく)手足(しゅそく)をも截(き)る事は、中中(なかなか)せらるるなり。然れば、世間の事を思うに、名利執心の為にも、多く(かく)の如く思うなり。(『正法眼蔵随聞記』)

総持寺の開山、瑩山(けいざん)禅師は、

名相利養、(ことごと)く之れに近づく()からず。

と戒めています。禅者にとって、名利に執着する事が一番の敵です。何よりも先ず、これ等を断ち切る事が肝要です。名利の心さえ断ち切る事が出来れば自然に悟りの光が輝くのです。
 茶聖、千利休の号はこの句から由来したと云われていますが、芳賀幸四郎氏は『一行物』という書物の中で「利休」という言葉には、また別な意があると紹介しています。
 利休居士の参禅の師である古溪(こけい)和尚の道友、春屋(しゅんおく)宗園(そうえん)禅師が「利休」の意を次のように頌しています。

宗門(しゅうもん)参得(さんとく)老古錐(ろうこすい)
平生受用す截流(せつる)の()全く伎倆(ぎりょう)無し白頭(はくとう)の日
青山(せいざん)に対するに飽いて枕児(ちんじ)を呼ぶ

 使い古した錐は(さき)が摺りへって丸くなり、角もなく無用なものとして捨てられ、忘れ去られた存在になるように、平々凡々、愚に徹した人を老(閑)古錐と云い、截流とは、如何なる場所、如何なる時でもその境に応じて間髪を容れず対応出来る鋭利瞬発な働きの出来る事。白頭とはしらが頭、枕児とは枕の事。
 宗門に参得す老古錐――利休居士は我が大灯国師の流れを汲む大徳寺の禅に参じ、悟了すれども悟りの「サ」の字も人に見せず、人知れず平々凡々、好々爺の如き老古錐の境涯の人である。
 平生受用す截流の機会――思えば若い頃の居士は万縁万境に対して常に鋭利俊敏な大機大用を発揮していた。
 全く伎倆無し白頭の日――しかし修行が進むにつれて、今やその鋭い機用も影をひそめ、ただ、平々凡々の老いた老人の如くである。
 青山に対するに飽いて枕児を呼ぶ――長い年月をかけて学んだ法も、修した道もすっかり忘れ果てて、悠々自適、今日とても眼前の山も見飽きた。枕でも出して、のんびりと一休みでもしようか……。
 こう見て来ると、利休の「利」がただ単に「名利」「利益」の「利」ではなく、「大機大用」の「利」である事が頷けます。
 「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」「悟りの悟り臭きは上悟りにあらず」と云われるように学んだ法も、修した道も忘れ果て、悟りだの、迷いだの、禅だの、仏だの、その影さえ窺うことが出来ない消息、それを「利休」だと云うのです。
 しかし、たとえ「利」が「利益」の「利」でなくても、「名利共に休す」る事はすばらしい事ではないでしょうか。