一行三昧

禅 語

更新日 2009/06/01
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一行三昧
(六祖壇経)
いちぎょうざんまい

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より

 三昧とは梵語のサマディー(三摩地)を音訳したもので、「(じょう)」「等持(とうじ)」の意があり、心を一境に専注することです。
 この三昧と、「常に一直心(いちじきしん)を行ず」という言葉が合体して、何時とはなしに一行三昧の言葉が生まれました。「常に一直心を行ず」の語意が理解できれば、自ずから一行三昧の意も頷くことができると思います。
 直心とは、「直心是道場」の直心で、まっすぐな心、混じりけのない純一無雑な心、分別執着のない心です。ゆえに、何時でも何処でも何事をなすにしても、そのことに純一であれというわけです。
 仕事をする時には仕事三昧、遊ぶ時には遊び三昧、食事の時には食事三昧、勉強の時には勉強三昧、その間に一点の雑念妄想をはさむことなく、全身全霊をもって事にあたる、これがまた、一行三昧でもあるわけです。いってみれば「禅」の生命もその一行三昧から始まり、一行三昧に終わると言っても過言ではありません。
 一行三昧に徹した面白い話があります。
 漢の李将軍は音に聞こえた勇猛な武人で、殊にその弓術は天下無敵で並ぶ者なきと称された人です。ある時、猟に出かけて山また山を踏み越えて進みます。と、突然一匹の大きな虎に出会います。遙か彼方にうずくまっていたのです。将軍は急ぎ矢を番えて、力一杯、満月の如く引き絞りサッと切って放ちます。狙いは違わず、矢は虎の体に立ちます。しめたと思い馳せよってよく見ると、虎ではなく、虎の形をした岩でした。岩に矢が立ったのです。将軍は得意になって、岩に矢が立った例は古今東西聞いたことがない、もう一度やってみようとばかりに、再び射てみます。四たび、五たび、幾たび打っても矢はついに立ちませんでした。
 最初虎と思った時には、一行三昧になることができたのです。射ようとする一念の他に何もなかったのです。然るに岩と知ってからは、「俺の弓術は岩をも通すぞ、見ておれ」という雑念妄想が入ったのです。一行三昧になり切れなかったのです。
 「一行三昧」、実に簡単な言葉です。しかし、行じ難く、到り難い言葉です。