悩乱春風卒未休

禅 語

更新日 2009/04/01
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悩乱春風卒未休
(雲門録)
しゅんぷうにのうらんして
ついにいまだきゅうせず

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

 唐の末期の詩人、羅隠(833~909)の柳を(じゅ)した詩の一節の句です。「悩乱」とは、悩み乱れること、「春風」とは春の風ですが、ここでは煩悩妄想と見るべきです。
 「花に嵐」といわれるように、花が咲き乱れる頃は春風の強い日が多いものです。春風に吹かれて、せっかく咲いた花が散ってしまいはしないだろうか。もう明日は見事な花を見ることはできないのではないだろうか、と心が千々(ちぢ)に乱れて、悩みが尽きないというわけです。しかも、花も実もある青春時代の頃ならともかく、人生の幾山河を乗り越え来て、もう終点間近の老熟の域に至っていても、まだ心の安まることができない。悠々閑々、静かな心境で過ごすことのできないことを、「卒に未だ休せず」と頌したのです。消そうとしても消すことのできない煩悩の炎を、深い悲しみをこめて、「春風に悩乱して卒に未だ休せず」と頌したのです。
 松尾芭蕉は五十一歳のとき、すなわち元禄七年(1694)の九月末、下痢をおこして、大阪の弟子のところで寝こみます。自分の寿命を知った芭蕉は辞世の句を吟じます。


旅に病んで夢は枯野をかけ(めぐ)


 旅に病み、夢うつつの中で枯野をさまよい歩く自分の姿を見たのです。夢の中でさえ、何かを求め歩き続けるのです。芭蕉の妄執の深さに驚かされます。これも、「春風に悩乱して卒に未だ休せず」の一つの見方です。
 しかし、禅では少し違った意味にこの句は使われます。
 大応国師の言葉にあります。
 一人の僧が釈尊の涅槃(釈尊の死)についてたずねるのに答えます。


(すなわ)(いわ)く、「……釈迦老子、此の時節に於いて、百花叢裏(そうり)渾身(こんしん)(かく)し得たり。然も(かく)の如くなりと(いえど)も、覚えず、脚(あら)われて直に如今(にょこん)に至るまで収不得にして、春風に悩乱して卒に未だ休せず」。
 
――釈尊が涅槃に入られたのは、決して滅し去られたのではない。釈尊は咲き乱れた花の中に、また、青々と繁った草叢(くさむら)の中に、全身をお隠しになったのです。しかし、頭隠して尻隠さず。たちまちに馬脚を顕わして、今に至るまで収まることができないのです。釈尊は今なお、諸国を行脚して、私たちに説法をし続けておられるのだ――。

 どんな道でも、その道の深奥を極めることができれば、その道の創始者、開祖、祖師方と親しく接し、同一の眼で見、同一の耳で聞き、同一の舌で味わう消息を得ます。それは、開祖、祖師方が縁のない過去の人ではなく、今なお、私たちのために説法し続けておられる、今なお、私たちと一緒に修行中であるというのです。道を得た感激が深ければ深いほど、祖師方の健在ぶりが納得できるのです。その健在ぶりを逆説的に、「春風に悩乱して卒に未だ休せず」と著語(ちゃくご)したわけです。
 言ってみれば、達磨も釈迦も、元気に修行の真只中、利休も珠光も、また紹鴎(いずれも茶人)も修行中ということです。
 何も、禅や茶の道をまちません。私たちの最も慈しむ、夫でもいい、妻でもいい、子でもいい、愛する人を亡くしたときの悲しみは絶望的です。しかし、愛すれば愛するほど、思えば思うほど、その人たちは決して死んだのではない。いつまでもいつまでも私たちと一緒にいるのだということが、ひしひしと感じられるものです。
 ……あなたがお亡くなりになってから、もう一年が過ぎ去りました。淋しいにつけ、嬉しいにつけ、たまらなくあなたにお話がしてみたくなりました。今夜はどうしたことか、末のかおるがぐずついて今ようやくねました。一時半です。いつの日にかあなたに「よくがんばったなあ」とひとこといっていただけるのを楽しみに、つらいことにも、悲しいことにも打ち勝って強く生きます……。
 ある未亡人の手記です。春です! この未亡人のご主人も春の花に浮かれ、まだうろうろしておられるのです。