渓澗拾流菜

禅 語

更新日 2007/10/01
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渓澗拾流菜
けいかんにるさいをひろう

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

 近頃の物の豊かさには圧倒されます。そして、消費は美徳とばかりに、食べものは食い散らし、着る物や家具道具類は使い捨て、本当にこれでいいのでしょうか?
 私たち現代人は、物質的な豊かさ、精神的な快楽を追い求めてきました。それはある程度その目的を達することができました。しかし、その反面、人々は物を大切にする心を失ってしまいました。「もったいない」「ありがたい」という心を失ってしまったのです。
 評論家福田恒存氏は、「まだ使えるものを捨てるのはいのちを粗末にする残虐行為」だと指摘しています。物を粗末にして省みないのは、自分自身を粗末にしていることと銘記すべきです。
 ある禅師の話です。
 ある時、門前の小川で野菜を洗っていた禅師は、誤って一枚の菜っ葉を流してしまいます。菜っ葉はどんどん流れて行きます。禅師は一生懸命、この菜っ葉を追いかけます。やっとの思いで一枚の菜っ葉を拾い上げることができます。ほっとした禅師に、一部始終を見ていた一人の修行者が問いかけます。
「天下の名僧たる御身が、なぜ、一枚の菜っ葉にこんな振る舞いをなさるのか」と。禅師は、
「たとえ一枚の菜っ葉といえども、皆、天が人間を養わんがために恵み育てたものだ。百石の米も一粒から、一滴の水も長江大河の波瀾となる」
と言って、拾い上げた菜っ葉をおしいただきます。修行者は大いに感激し、禅師に入門を乞い、弟子になります。
 この禅師の行動を「バカげた漫画」と一笑に付してもいいものでしょうか。物のあり余る時代だからこそ、かえって、この「渓澗に流菜を拾う」話を大切にしていかねばならないのではないでしょうか。『朝日新聞』の投書欄に、横浜の湯浅きよみさんという主婦の投書が載せてありました。

 実りの秋を前に、田の稲が収穫を待っています。わが家の庭でも、一株の稲が穂を重たげに下げ、色づいてきました。
 小学二年の娘が六月ごろ社会科の勉強で近くの農家の田植えを見学に行きました。その時、一本の苗をもらってきましたが、家に持ち帰った時には、もうすっかりしおれていました。
 ところが、隣に住む八十八歳の娘の大祖母が植木鉢に植え、水を張り、毎朝水を絶やさぬようにして育ててくれていたのです。一ヶ月ほどして青々とした葉を伸ばし、やがて白い花を咲かせ穂をつけました。まさか育つとは思わなかったしおれた苗が、こんなに多くの実をつけ成長するのかと、その強さに親子で感じ入っています……。
 それにしても大祖母が、一本の苗でも無駄にしないで育てた優しさに頭の下がる思いです。物の豊かな時代に育った私たち親子は見習わなくては…。
(昭和五十八年十月十四日)


 一枚の菜っ葉、一本の苗。これはただたんなるモノではありません。尊い生命です。私たちはもう一度、原点に返って物のありがたさを感得しなければなりません。


なにも知らなかった日の
あの素直さにかえりたい
一ぱいのお茶にも
手を合わせていただいた日の
あの初めの日にかえりたい      (坂村真民「初めの日に」)