忘筌

禅 語

更新日 2007/09/01
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忘筌
(荘子)
ぼうせん

『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より

 中国の古典、『荘子』外物篇(がいぶつへん)にあります。

(せん)(うお)()
所以(ゆえん)、魚を得て筌を忘る。(てい)(うさぎ)に在る
所以、兎を得て蹄を忘る。(げん)は意に在る所以、意を得て言を忘る。(われ)(いづく)にか()忘言(ぼうげん)の人を得て、()れと(とも)に言わんや。


 「筌」は「うえ」といい、細い割竹で作った魚を捕らえる道具。「蹄」は兎などを捕らえる「わな」の事。即ち、川に仕掛ける筌は、魚をとるための道具であり、魚をとってしまえば、もはや用のないものです。また、山に仕掛けておく蹄は、兎を生けどりにするための道具であり、兎をとってしまえば、無用の長物となります。また、今の学者は、言葉や文字は、意、即ち心のあり方を説明する手段道具でしかないはずなのに、言葉や文字を余りに重用しすぎて、「意」をないがしろにしている……というわけです。
 あくまでも筌は魚をとるための道具であり、蹄は兎をとるための道具であり、言は意を伝える手段でしかないのです。
 「何が目的で、何が手段なのか、間違いのないように注意せよ」というわけです。
 大珠(だいじゆ)慧海(えかい)禅師もこのように伝えています。

()()(ごん)を忘れ、()(さと)りて(きょう)(わす)るるは、()()(うお)()(せん)を忘れ、(うさぎ)を得て(てい)を忘るるがごとし。
(『景徳伝灯録』巻二十八)


 釈尊が説いたといわれる八万四千の法門も、千七百といわれる古則公案も、所詮、「悟り」を得るための手段道具でしかないのです。悟りに至ってしまえば、もう用なしの類であり、それらを忘れ去れというわけです。
 私たちは何かというと第一義的な目的を忘れ、第二義、第三義の手段道具に執らわれてしまい、言句の詮索に憂き身をやつしてしまうのです。
 妙心寺開山、関山国師も、「遺誡」の中で、

汝等(なんじら)()()(もと)を務めよ。……(あやま)って()()(えだ)(たず)ぬること()くんば()し。


といわれています。
 「忘筌(ぼうせん)」と名づけた茶室があります。孤篷庵(こほうあん)小堀(こぼり)遠州(えんしゅう)開基(かいき)に、江月和尚を開祖とする寺で、方丈の側にある茶室を「忘筌」と名づけたのも遠州だといわれています。
 小堀遠州は近江の人で、坂田郡の小堀(現在の長浜市小堀町)で生まれて本名を正一といい、遠州守に任じられた事により遠州といわれるようになります。父親が秀吉に仕えて普請奉行を勤めた関係で、秀吉に小姓として登用され、父の死後、二十六歳で備中の松山の領主となりますが、後に近江の小室の城主となります。
 大徳寺の春屋禅師に参じて「大有」の号を受け、茶は古田織部に就いて研鑚し、号を宗甫、孤篷庵といい、遠州流の開祖といわれるほどになります。父の普請奉行の跡を嗣いで各所の造営に才能を発揮しますが、晩年に至って作事奉行、造園奉行として各地に名園名建築を残します。
 彼の家風は「綺麗さび」といわれるもので、都会的な雰囲気の中で、もの静かな優雅を表現する所に特徴があり、特に茶室の建築には、その家風がしのばれます。大徳寺の龍光庵の密庵(みつたん)、南禅寺金地院の八窓の席、孤篷庵の忘筌の席などが特に有名です。
 後に徳川家光の茶道指南にもなったので名声が高まりますが、正保四年(一六四七)、伏見の自邸で、


きのふといひけふとくらしてなすことも
           なき身のゆめのさむるあけぼの


と辞世の句を残して六十九年の生涯を閉じ、自らが開基となった孤篷庵に葬られます。
 遠州は大切な茶室を「忘筌」と命名して、目的と手段を取り違えることなく、茶道の原点に返る事を教えたのではないでしょうか。


茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事を知るべし
                            千利休