更新日 2006/12/01 |
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『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』 (細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より |
中国唐代の詩人、賈島(七七九~八四三)に、「隠者を尋ねて遇わず」と題する詩があります。
松の下に一人の童子がいます。「隠者(仙人)は何処にお出かけになったのか」と尋ねると、童子は答えます、「先生は薬草を採集しに行かれた」。この山中に居られる事は間違いないようだが、こう雲が深くてはどの辺だか一向にわからない! 「只だ此の山中に在らん、雲深くして処を知らず」。この句に参ずる為には、『無門関』第四十七則「兜率三関」の調べが必要です。
撥草参玄とは荒草を押しわけて深山幽谷を歩き、諸国行脚を重ねて名師に参じること。上人とは僧の尊称ですが、ここでは「お前さん」の意。 兜率和尚(一〇四四~一〇九一)は、いつも修行者に向かって三つの関所を設けて修行させます。 その第一として、「修行者が諸方を遍歴行脚するのは物見遊山の為ではない。各地の名師に参じて、見性、即ち自己の仏心仏性を看て取るためだ! 即今、お前さんの仏性は一体何処にあるのだ!」と鋭く迫るのです。 仏教では、人間は誰でも覚者(めざめた人)、仏になれる可能性を持っていると説き、この隠れた普遍的で基本的な人間性を仏性と呼びます。仏性は純粋な人間性です。しかも、この仏性は人間だけではなく、すべての存在、草や木、鳥や動物、石ころやごみまでもあるといいます。禅ではそれを知識として知るだけではなく、真参実証、即ち自分のものにする事が出来たか否かを問題にするのです。 そのゆえに、「即今、上人の性、甚れの処にか在る!」と鋭く喝破するのです。 修行者はそれを求めて毎日毎日実参苦修、追い求めます。しかし中々得られません。それは何処か、遠い別な場所にあるわけではないのです。一番身近な自分自身の心の中にあるのです。それを求めてウロウロしているのが昨今の私達です。 古人はこの辺の消息を、「只だ此の山中に在らん、雲深くして処を知らず」と寸評するのです。 雲は私達の迷い、煩悩妄想を指します。雲さえ晴れればすぐそこにあるものも、雲の為についつい見失ってしまうというのです。 私達人間は云うに及ばず、スカンク、トカゲ、ヤマアラシ等々までの動物達の生きる能力のすばらしさ――仏性――を、「すごいだろ」「すばらしいだろう」の語り口で、丁寧に子供達に問いかける児童文学者、椋鳩十(一九〇六~一九八七)の話を聞いた事があります。 「……人間でもねえ、それぞれ“すばらしい力”を、じぶんのなかに持って生まれてこない人間は、ひとりもおらない。きみも、きみも、きみも…… なにかはわからんね。なにかはわからんが、みんな、“すばらしい力”を、ひとりひとりが持ってる」 その“すばらしい力”は学んだり教えられたりして得られるのではなく、
と語り、学んだり、読書したりしているうちに、本来持っている“すばらしい力”に気付くのだというのです。 私達も仏になる可能性、仏心仏性を持っていながら、それに気付く事なくウロウロする様子、まさに、「只だ此の山中に在らん、雲深くして処を知らず」の消息です。 |