直指人心 見性成仏

禅 語

更新日 2006/05/01
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直指人心 見性成仏
(伝心法要)
じきしにんしん
けんしょうじょうぶつ

『白馬蘆花に入る -禅語に学ぶ生き方-』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より

 この語は、「不立文字」「教外別伝」と同じように「禅」の特性を表わす代表的な語です。直指人心と見性成仏は、それぞれ独立した語として用いられることもありますが、むしろ、「直指人心、見性成仏」と一緒に関連して考えた方がわかり易いと思います。
 「直指」とは、直ちに指すこと。文字、言葉などの他の方法によらず、直接的に指し示すことをいいます。「人心」とは、感情的な「心」ではなく、自分の心の奥底に存在する、仏になる可能性ともいうべき本心・本性・仏心・仏性といわれるものです。ですから「直指人心」とは、自分の奥底に秘在する心を凝視して、本当の自分、すなわち仏心、仏性を直接端的にしっかり把握することをいうわけです。
 「見性」の見とは、ただ物を対象的に見るのではなく、対象そのものになり切る、一体、一枚になることです。性とは、直指人心、すなわち、仏心仏性を意味します。「成仏」とは、世間でいわれるように死ぬことではありません。仏陀(覚者)になること、覚った人間になることです。「見性成仏」は、すなわち、自分の奥底に存在する仏心仏性になり切って、真実の人間になることです。
 私たちは、何か求めるというと、他にいろいろと求めてウロウロしますが、禅は直接、自分の心に問いかけて、自分の本当の姿、仏心仏性を看て取れというわけです。言いかえれば、「直指人心、見性成仏」以外に、禅の悟りに至る道はないというのです。
 文字も、言葉も、経験も、祖師も、坐禅も、すべて覚者になるためには不必要だ! 自分の心に向かって究める以外に法はない、と断言しているのです。
 『伝灯録』に「南嶽磨甎」という話があります。
 南嶽懐譲禅師(六七七~七四四)が般若寺に在住の折り、一人の修行者が熱心に坐禅をしているのを見かけます。
 南嶽は声を掛け、問答が始まります。
「貴公は、そこで黙々と坐禅にふけっているようだが、一体何をしているのか」
「はい、今、一生懸命坐禅三昧に入ろうとしています」
「坐禅三昧に入って何をする気だ」
「坐禅して仏さん(覚者)になるのです」
「坐禅して仏さんになろうとするのか」
といいながら庭に下りて甎のかけらを拾いとり、庭石の前に坐り込んで、ガシガシとこすり始めます。驚いた修行僧は、けげんな顔をして、南嶽に問いかけます。
「老師は一体何をなさろうとしておられるのですか」
「鏡を造ろうと骨折っているのさ」
 修行者は笑いながら、
「ご冗談でしょう。かわらをいくら磨いても鏡にはなりませんよ」
 それを聞いた南嶽和尚、突然ムックと立ち上がって、一喝します。
「かわらをいくら磨いても鏡にはならんように、いくら坐禅しても仏にはならんぞ!」
 この一言が、修行僧の脳裏をえぐります。
「坐禅しても成仏できないとなれば、私はどうしたらよいのでしょうか!」
 南嶽和尚、じっくりさとします。
「牛車が動かなくなったら、車をたたくのがよいか、牛を打つのがよいか?」
 修行僧、涙を出して礼を述べます……。
 もちろん、坐禅は大切なことには違いありません。しかし、牛車よりも、牛が動くか動かないかが肝要です。成仏は坐法にあるわけではありません。あくまでも「見性成仏」の一念にあるのです。
 古代ギリシアの哲人ソクラテスは、「汝自身を知れ」の格言を座右の銘として自己をみつめ、自己の探究に精進したといわれています。私たちも一度立ち止まって、自分をもう一度じっくり反省して、「直指人心、見性成仏」の語を味わってみようではありませんか。