法 話

“無理会”でいきましょう
書き下ろし

兵庫県 ・宝林寺住職  西村古珠

rengo09.jpg 当寺は、臨済宗の大本山のひとつ「大徳寺」の開山、「大燈国師」の生誕地とされ、境内には国師産湯(うぶゆ)の井戸も残されています。正式な建立は不明ですが、有縁の方々の御法愛に護られつつ今日まで細々とではありますが国師の法燈が伝えられています。
 知る人ぞ知る大燈国師、宗峰(しゅうほう)妙超(みょうちょう)禅師。一般的な知名度では決して高いとは言えないようです。特に当地では、同じく地元出身の詩人三木露風(「赤とんぼ」で有名)に遠く及ばないことを常日頃遺憾に思っておりますが、これも「天然の気宇(きう)、王の(ごと)し。人の近傍する無し。」と評される国師の風格のなさしめるものなのかも知れません。
 近年臨済宗中興の祖、白隠禅師が最も尊崇された禅僧でもある大燈国師の教えは、「興禅大燈国師遺誡(ゆいかい)」に凝集され、全国各地の臨済宗専門道場において修行僧達によって綿々と読誦され続けています。その一節に、「無理会(むりえ)(ところ)に向かって(きわ)め来り究め去るべし」とあります。「無理会」とは「理会」を超越した世界、理性的判断の届かない次元のこと。わかったようでわからない、何となくだまされた気になりそうですが、そうではありません。
 皆さんが「オギャー」と生まれたその時、今日が何年何月何日かも知らず、ここが地球上のどこかも知らず、父親の年収の多少も知らず、母親の容姿のよしあしも知らずに生まれてきたのです。自分が男か女かも知らず、自分の体重も身長も血液型も知らず、それどころかじぶんが生まれたということさえ知らずひたすら「オギャー」。私達は一人残らずこうして生まれてきた、そうです、「無理会」で生まれてきたのです。そして、本当は今日も「無理会」で生きている筈なのですが、ややもすれば有りもしない自分を勝手にあると思い込んで、ああでもない、こうでもないと右往左往、道に迷うのです。人間存在の原点である「オギャー」に返ること、それを国師は「無理会の処に向かって究め来り究め去るべし」と仰言(おっしゃ)っておられるのです。そして、朝起きたら顔を洗って「おはようさん」、仕事先では「こんにちは、今日もよろしく」、夕方になれば「お疲れさま」というふうに「無理会」が臨機応変、融通無礙に働いてゆくのです。死んでから風になるのではない。即今、雨が降れば雨とひとつ、風が吹けば風とひとつ。雨降るもよし、風吹くもよし。柳は緑、花は紅、「無理会」の世界では、雨も風も柳も花も自分そのものなのです。