法 話

生かされているのか、生きるのか
書き下ろし

京都府 ・大慈院副住職  戸田惺山

 病気や怪我から生還して、九死に一生を得たり、なにかのきっかけで「生きているのではなくて、自分は生かされているのだ」と感じる人が少なからずある。そしてそのことに気付いたならば、自分は一人で生きているのではないのだから、まわりの人や物や環境に感謝して生きなければならない、ということになる。
 けれど、あるガン患者は、自分の掌を見ながら、言った。
 「和尚さんたちは、生かされているなんてことを言わはりますけど、私らちっともそんなふうには思えませんな。生かされてるなんていうと、じゃあ、誰に?と思ってしまう。そら、空気やら食べ物やら太陽とか周りの人のおかげで生きていられる、というのはわかりまっせ。理屈としては。けど、やっぱり、事実として、私は私で生きてますがな」。
 占いをする人が、「寿命、人の生き死にに関する事は占えない」と言っていたけれど、生まれたり死んだりは、自分の都合に関係なく訪れるだけで、いつ生まれて、いつ死ぬのか、自分で決められない。知ることすらできない。誰も彼も、命の決定権は自分からとりあげられたまま、思いがけなく生きながらえたり、呆気なく死んでしまったりする。
 「和尚さんと思って聞きますが、人間は本当に誰かに生かされているんですか?」
 「ただ生きている」
 そう答えて彼の手を、握る。