法 話

「福は内」「鬼は外」
『琉璃燈』(平成17年3月発行)

愛知県 ・先聖寺住職  芹沢保道

 町の中で買い物帰りの親子連れに出会いました。母親が子供の手を引き、子供はもう一方の手に鬼の面と豆袋を提げて歩いていました。
 二月三日の節分、四日の立春と、本当の意味での新年を迎える季節になりました。「福は内」「鬼は外」と、親子連れの掛け声の情景が浮かび、暖かさが感じられて一人で微笑んでいました。
 ところで、誰が鬼になり逃げまどうのでしょうか。果たして「鬼」とはいったい何なのでしょうか。ふと考えてしまいました。
 人は、普段はなかなか表に出さないのに何かの縁でふと出すものがあります。これを「(おん)」といって、後にこれが「(おに)」に変わったのでしょう。
 人の毛穴は、八万四千あるといわれ、その穴を通して毎日本当の自分が出たり入ったりしているのですが、それに気づいている人は少ないのです。
 八万四千を縮めて百八の除夜の鐘にしている煩悩(ぼんのう)はよく知られています。一年の十二ヶ月は、二十四節気(にじゅうしせっき)七十二候(しちじゅうにこう)からなり、その季節の変わり目を加えると百八になり、節目節目を大切にし、また、体に気をつけてくださいとの教えです。
 仏教では、これを(とん)(じん)()の三つに縮めて「三毒(さんどく)煩悩(ぼんのう)」と称しています。(むさぼ)ることなかれ、執着(しゅうじゃく)することなかれ、怒ることなかれの意味で、人間最大の煩悩です。
 そこで登場するのが鬼、つまり煩悩です。赤鬼、青鬼、黒鬼という、私たちの深層(しんそう)に住んでいる三匹の鬼がいます。怒って真っ赤になったのが赤鬼で、何か心配ごとがあったり、心配して青くなったのが青鬼、無知でお先真っ暗なのが黒鬼です。自分の心の状態ありのままを表わしている姿です。この鬼たちを豆で追い払おうとするのが、節分という追儺(ついな)行事(悪鬼を追い払うために行
なう儀式。鬼やらい。昔は大みそかに行われていた)になったと言われています。
 黄檗五十七代玄妙(げんみょう)管長に、「鬼は外 福は内なる 外の鬼 つかまえてみたら 内の鬼なり」の歌がありましたが、まさしく鬼は内にいます。
 つまり節分の豆まき行事は、自分の体についた罪、(けが)れを豆(魔滅)に移して流そうとする行為であり、最後にその豆を自分の数だけ食べるのは自分の(みそぎ)をしているのです。節分の鬼は、このとき新年を迎える人たちのために「新しい年を持ってくる神」の姿であり、豆を撒いたのも鬼退治よりも神への供物であったと思います。そうでなければ大切な食物である豆を撒くはずもありません。
 江戸時代の儒者(じゅしゃ)の言葉に、「鬼は外」「福は内」に語呂合わせした『遠仁者疎道(おにはそと)不苦者有智(ふくはうち)』(仁に遠き者は道に疎し。苦しまざる者は智有り)の言葉があります。(じん)に遠い人、つまり思いやりのない人は人の道に(うと)く、苦を超越した人は悟りの智慧を持つ、という意味ですが、奥深い教示(きょうじ)です。
 また、おとぎ話の「一寸(いっすん)法師(ぼうし)」も興味深い話です。ただ一つ「法師」の名が付くお話です。
 お姫様を伴って清水寺へ参拝の帰り道、鬼が出てきてお姫様を連れ去ろうとしたとき、一寸法師は針の剣を振りかざして、鬼の口から飛び込みその鬼を退治しました。鬼は自分の中にこそあるという教訓です。鬼が退散し、その後に残されていたものは打出の小槌ですが、これは煩悩を払い去った後の「智慧
の象徴と言っていいでしょう。日本の昔話はなんとすばらしいものでしょうか。
 これが仏教では、智慧の菩薩として知られている文殊(もんじゅ)菩薩(ぼさつ)として語られます。文殊菩薩は、左手に経本を持ち右手に剣を持ったお姿です。勉学中に煩悩が湧いたら剣で退散させて修行を続けて智慧をつけてくださるということです。
 さあ皆さん、豆を持って自分の内側から鬼を退治しましょう。
 「福は内!」「鬼は外!」