法 話

日々合掌で生活(くらし)ましょう
書き下ろし

長崎県 ・是心寺住職  辻良哲

黄金に色づく銀杏 私達の日常の生活の中で決して忘れてはならないこと、それは合掌のある生活です。合掌とは両手を合わせ心を一つにするということで、仏教では仏に対しての絶対の帰依を表わす動作ですが、しかし仏教に限らず他宗教にも、又無宗教の社会にも手を合わすという行為はあります。食事の前後、人に頼みごとをする時、人は知らず知らずのうちに何度となく手を合わせています。合掌とは、仏教の儀礼というより、むしろ人間の敬い慎むという古典的な行為であり、それがそのまま仏教の儀礼として結び付いたのではないでしょうか。人間の一番美しい姿、それは合掌の姿です。
 インド等、東南アジアの国では日常の挨拶、人との出会いの時には必ず合掌し、「ナマステ」と言い挨拶を交わします。「どうぞ出会った貴方がこの先無事でありますように、貴方にどうぞ幸福が訪れますように」という意味です。
 合掌とは私と貴方が今、ここで出会ったということなのです。奈良薬師寺の元管主、高田好胤師は、手の平と平を合わせて「しあわせ」、反対に節と節とを合わせれば「ふしあわせ」と合掌を表現されました。人は正面からしっかりと向かい合い、そっぽを向いていてはいけないということだと思います。
 私達がお仏壇に向かって合掌するのは何故でしょう。それは仏に出会い、御先祖に対面しているのです。現在の家庭はほとんどが核家庭となり、若い世代の家庭、また分家している家庭には仏壇がありません。合掌する場所がないという悲しい現実です。宗教心が育つ環境が失われ、仏心という尊い心が育ちにくい社会となってしまいました。お仏壇には何がお祀りされているのでしょう。お位牌には先祖代々霊位と書いてあります。霊というと幽霊とか悪霊とかが思い浮かび、何となく気味悪い、恐ろしい等というイメージがありますが、代々の霊位とは、その家先祖代々が受け継いできた「いのち」ということで、お仏壇には先祖代々の「いのち」がお祀りされているのです。私といういのちが今日ここに生かされているということは、両親のいのちを御縁として、父方、母方それぞれの祖父母、多くの御先祖の「いのち」が受け継がれてきたからであるということを忘れてはなりません。この多くのいのちの一つでも途中で切れていたとすれば、私はここに生まれてくることはなかったということを理解できたなら、御先祖のいのちに向かって合掌せずにはいられないはずだと思います。
 先祖は根、我は幹、子孫は枝葉ということではないでしょうか。根をおろそかにし枯らしてしまっては、幹も枯れ、枝葉も落ちてしまうでしょう。
 手を合わせ、合掌し、仏を拝し、先祖を敬うという日常の生活があってこそ、代々受け継がれてきた「いのち」の大切さが解り、人に対し、また物に対しての報恩感謝の心、仏心が育つと信じ合掌ある日々を送りたいものです。