法 話

心のお掃除
書き下ろし

愛媛県 ・城願寺住職  五葉光鐵

 お寺は広くて掃除が大変です。私も何もない時にはたいてい作業着に地下タビ、麦わら帽子という出で立ちで庭掃除に励んでいます。特に私の寺は山間地ですから雑草が多く、油断するとすぐに境内のあちこちから雑草が生えて来ます。玄関の前から草引きの掃除を始めて、本堂の前・裏庭・畑の方と草引きを一周りした頃には、もう最初の所には草がうっそうと生えているものですから、掃除は毎日こまめにしなければなりません。
 さて、昔のインドに掃除をしながら悟りを開いたお坊さんがいました。それは二千五百年前、お釈迦さまの弟子のシュリハンドクという名前のお坊さんです。この方は、物覚えが悪くて、朝聞いたことも夜になると忘れてしまう。その上、自分の名前も覚えられなくて、背中に自分の名前を書いてもらい、人に名前を聞かれると、自分の背中を見せて自分の名前を教えるほどでした。ですから他の弟子達からいつも馬鹿にされておりました。彼はそういう自分が情けなくなって、お釈迦さまのところへ行き、「私はもうお坊さんをやめたいのです」と相談をしました。
 するとお釈迦さまは、「何にも心配はいらないよ」と言って、彼に一本のホウキを持たせて「きれいにしよう」という言葉だけを教えたのです。
 シュリハンドクはそれから何年も、その言葉だけを繰り返しながら掃除をし続けました。ある日、いつものように庭を掃いていると、お釈迦さんが「ずいぶんきれいになったね。だけど、まだ一カ所汚いところがあるよ」と声をかけたのです。
 シュリハンドクは不思議に思い「どこが汚いのですか」と尋ねましたが、お釈迦さまは教えてはくれません。「はて、どこだろうなあ?」と思いながら、それからもずっと「きれいにしよう」と言いながら掃除を続け、数年たったある日、はたと気がついたのです。
 「そうか、汚れていたのは自分の心だったのか」と悟ったというのです。その時、お釈迦さまが彼の後ろに立っていて「やっと全部きれいになって良かったね」と言いました。
皆さんも、その状況を想像して見てください。
 最初は掃き方も下手で、わけも分からずに一生懸命に掃いているわけです。しかし、そのうちに掃除にも慣れてきて「あの隅っこが汚れているぞ」と気がついたり、掃いてもしばらくすると、また汚れてくることや、また、「きれいに掃けたなあ」と思っても、光りが差し込んでくると空気中にいっぱいほこりが浮かんでいるのが見えると、そういうことが分かる。その中で「何とまあ、いくら掃いても掃いてもきれいにならないものだなあ……。あっ!自分の心もそうじゃないのかなあ」と、気づいたわけなのです。「お釈迦さまはなぜ自分に掃けといったのか。それは結局、『自分の心を掃け』ということだったのだなあ」と悟ったというわけです。
 つまり外側のお掃除だけではなく、まず心の掃除が大切ということです。仏教には精進という言葉がありますが、皆さんも自分自身をしっかり見つめて、よそ見や油断をしないで、今なすべき事を一生懸命に続けることです。
 「心に草は無けれども、迷いの草は生い茂る」という言葉がありますが、心に草が生えないように「きれいにしよう」と心の掃除をしてみませんか。