法 話

節分
鬼は内 福は外
『花園』平成9年2月号

岐阜県 ・小山寺住職  中西東峰

 節分は、読んで字のごとく季節を分けることです。春夏秋冬の変わり目毎にありますが、特に鬼を追い払うのは修二会や追な式の意を含む立春の前日のみのようです。「福は内、鬼は外」と、行き場を失ってしまう鬼たちにとっては嫌な厄日です。
 東福寺専門道場での修行時代、春のお彼岸前に掛搭して小一年が過ぎ、そろそろ慣れと慢心が起きてきそうな節分の頃、この新参者の私に『鬼』の役が命じられました。寒気極まる二月三日深夜、(※1)解定前の禅堂は、今日一日の最後の仕上げに一所懸命に坐禅する雲水達の気迫で空気は張り詰めています。その静寂の中へ、素っ裸の身体中に絵の具で落書きをした、金棒に越中ふんどし一つの私がウォーウォーと吠え廻り、その後ろからは法衣姿の曳き手さんが「鬼は内、鬼は内、福はー外!」と一生桝の鬼打豆を撒くのです。目の前のこの光景にニヤリともピクリともしない先輩雲水の不動の姿には驚きでした。その反対に、いつもは恐ろしく厳格な恵鏡老師が童のようにコロコロと声をあげて楽しそうに隠寮を逃げ回られたのが更に印象的でした。
 「鬼は内、鬼は内、福は外」との伝統の掛け声を教えて下さった先輩は、怪訝そうな顔の私に続けられました。「邪魔者はどんどん引き受ける、幸福はどうぞ他所さんへ。そして、むしろ我が身中の虫、厄介な曲者を自らに問うのじゃ。鬼が改心し、仏の昧万になれば強力な(※2)護法神となるのじゃ。それが証拠に道場には鬼瓦など無いじゃろが、必要ないのじゃ。我が身が鬼じゃ。」と。
 私達は他人任せ、いや鬼任せにしてしまっているのではないでしょうか。害となることは全部鬼のせいにして、鬼は外、福は内。節分は冬の終わりと春の始まりのけじめの日。この日をご縁に、自らの内に潜む、醜悪な鬼に気付き、我が鬼心をこそ払わねばなりません。迫うべきものを間違えねば、本来の清浄な仏心は自然に自覚され、節分は正しい生き様へのけじめの日となることでしょう。


鬼も悟れば仏となり
仏も迷えば鬼となる  (古歌)


※1 解定=定めを解くこと。一般的に消灯のこと。
※2 護法神=仏法を守る鬼神。四天王、十六善神など。