法 話

勤労感謝
汗をながす喜び
『花園』昭和63年11月号

愛知県 ・林貞寺住職  大野鍈宗

 十一月二十三日は勤労感謝の日であります。
 この日は宮中でも勤労を感謝する儀式が行われておりますが、各町村からながれてくる祭囃子の音は、昔も今も変わらない。一年間の汗の結晶が見事にみのったという天地自然の恵みに対して、働く人々が敬虔な気持ちで感謝しお祈りをする秋祭りの日であります。
 禅宗では、勤労のことを「作務」と呼んでいます。「作務」の大切なことは、人間として当然の務めを果たすという意味であり、働くことのみをいうのではなく、また生活のために食わんがために働くという意味ではないのであります。
 中国の高僧、百丈禅師に「一日不作、一日不食」というお言葉があります。これは一日一日人としての務めを果たしてゆくところに、禅宗における「作務」の意義と修行の大切さがあり、それを禅師自らの行履によって自戒せられた教えであります。
 この教えは、釈尊が法華経のなかでも説いておられます。「資生産業実相に違背せず」とあり、資生とは、いのちを資けることであり、産業を興し勤労によって社会を有益し人びとの「いのち」を資けるそれ自体が仏道に叶い仏作仏行であると示されています。
 考えてみると、人間のみが果たし得る行為が勤労であり、また今日の日本経済を支え、先進国といわれる社会を築きあげたのも勤労であります。
 しかし、現代は機械文明が先行して、人間が汗をながすことの喜びとその味わいが失なわれて来ているようにも思えてなりません。
 私事で恐縮ですが、私の母親は住職を五十一歳で亡くし、女手一つで畠仕事、山仕事と働き続けて六人の子供を育て、八十一歳で亡くなるまで汗をながしつづけてくれました。その母親の節くれた皺だらけの手を握り、最後の別れをしたとき、私が今日あるのは母親のこの手にあったのかと気づき、深く「勤労」という言葉の重さが身にしみて感じられたのであります。
 祭り囃子のなかで今思うことは、社会の多くの人びとや、天地から受ける恩恵に報ゆるために、人間として作さぬばならぬ務めがあると考え、実行しようとする心こそ、勤労感謝の心であり、、流れる汗を真に味わえる生き方を大切にしていきたい、ということであります。