修行(雲水の生活)

托鉢
たくはつ

 禅堂生活の目的は、坐禅と入室(にっしつ)の繰り返しによって、無始劫来(むしごうらい…はかり知れない遠い昔から)の煩悩妄想(ぼんのうもうぞう)の皮を一枚ずつはぎとることである。はいで、はいで、はぎ尽くして、自己本来の純粋性にめぎめることであり、そうして坐禅蒲団の上で死にきる公案三昧の体験である。
 中国の詩人たちは馬上、厠上、枕上を三上といったが、寝ても覚めても、いても立っても、いつでもどこでも句を錬るのである。これを禅門では正念相続(しょうねんそうぞく)とか、動中の工夫とかいう。「動中の工夫は静中の工夫にまさること幾千倍」というが、この動中の工夫のひとつに托鉢がある。
 托鉢は禅堂経済を維持する主たる方法ではあるが、単なる経済的目的だけでするのではない。施主(せしゅ)に与える精神作用と社会的意義、そして、動中の工夫によって純一無雑の境地に至る自利的要素はともに見逃せない。
 托鉢のことを分衞(ぶんねい)ともいう。多くの場合、三、四人の組に別れて、「ホォーッ、ホオーッ」と叫びつつ、一定の間隔を保ちながら街をおもむろに歩いてゆく。
 けれども、新参の雲水にはこの 「ホオーッ」の一声がなかなか出しにくい。古参の引き手さん(引率者)から「声が小さい、東に向かったら叡山に、西に向かったら愛宕山の頂に届くような声を出せ」と気合いをいれられたことも今は懐かしい。
            紺の衣に白地の脚絆
ホォーホォーも粋なもの
 と京童(きょうわらべ)は歌う。
 托鉢中も工夫三昧である。牛の鼻づらに突き当たり、驚いたのは牛のほうで、ボヤボヤするなこの奴とばかりに角に引っかけられ、投げ飛ばされたとたんに大悟徹底、漆桶打破(しっつうだは…うるし入りの柚を打ち破るように、迷妄を打ち破って大悟する)した古徳の因縁(言行)もある。
 僧堂によって多少の相違はあるが、毎月二、七、五、十の日の午前中が托鉢日である。
 僧堂ではいろいろな托鉢をする。茶鉢、麦鉢、大根鉢、野菜鉢などが季節に応じて随時行なわれる。また、各僧堂には特定の供養主があって、月々に米や金などを寄進する。その供養を受けるために雲水たちは出かけて行くが、これを日供(にっく)とか合米(ごうまい)と呼ぶ。
 ひとりでおよそ二十軒ばかりの施主の家を回るのだが、集め終わると一斗ちかい量になる。雲水たちは首にかけた重い袋の目方に耐えて数里の道を徒歩で帰ってくる。特に風雪の日の日供集めはたいへんな労働であり、ときには施主家の飼犬に吠えられて噛みつかれたり、手痛い挨拶を受ける。
 ところで、古来、禅僧と犬とのかかわりや逸話は多い。
「無」の公案は、「狗子(くし)に仏性有りやまた無しや」という一僧の問いに対して、趙州(じょうしゅう)和尚が与えた答えであるが、この公案の犬はすべての禅僧の骨の髄まで食らいついて離さない。托鉢中も「有無を超えた無」の公案になりきるのが施主の供養に応える唯一の道でもある。
 王常侍(おうじょうじ)という居士(こじ…深く仏法を信奉する男)が、「一切衆生には仏性があると聞くがいかがですか」 と一僧に問いかけた。
 僧は答えて、「あります」 と。この答えがいまだ終わらぬうちに、王常侍は襖に描かれた狗子の絵を指して、
 「こいつはどうか」
 僧は無語で、返事につまった。王常侍はすかさず、「そらっ、犬に噛まれるぞ」と、僧に代って答えている。
 また、日供に出て犬に噛まれた僧に向かって、
「金翅鳥(きんしちょう…竜を常食とする空想上の猛鳥)は大千世界をひと呑みにするほどだが、一片の法衣の布をかけていると、あえて呑まぬという。しかるに、貴僧は全身に法衣を着けているのに、犬に噛まれるとは、いったいどうしたことか」
 と施主が問うた例話もある。油断のならない現成公案(げんじょうこうあん)である。