修行(雲水の生活)

入室参禅
にっしつさんぜん

 相見がすめば、早くもその日から入室参禅(にっしつさんぜん…老師の室で指導をうけること)が許される。
 新到が、入室するとまず公案(こうあん…修行のための問題)が与えられる。僧堂では平常では朝暮二回の喚鐘(かんしょう)が出て、参禅が促される。喚鐘とは、参禅入室を知らせる合図のことである。老師の居間へ通じる渡り廊下などの場所で鳴らされるのだが、雲水たちはここを喚鐘場と呼んでいる。
 喚鐘の音を聞けば、雲水たちは一斉に喚鐘場に走って順番をとる。やがて、自分の順番がくれば、この鐘をみずから二点打して老師の部屋に入るのだが、そこには一定した独参(どくさん)の作法が定められている。まず、室の入口で合掌礼拝する。入口の疊は、永年にわたる入室参禅者の汗と手垢が浸みこんで、黒く光っていてなんとなくすさまじさを覚える。

 僧堂では原則として、朝暮二回の入室を欠かすことは許されない。「朝参暮請」という言葉があるのは、この辺の消息をいったものである。
 室内では師家(しけ)と学人(がくにん…修行者)とは「差し」であり、余人を交えぬ法戦場(ほっせんじょう)である。学人は自己のかかえている公案の見解を述べて、師家の判定を請うのだが、ここでは古参も新到も徹底的にその心根が錬磨される。この修行のすさまじさは「炉柎(ろはい)に入って鉗鎚(けんつい)をうける」と表現される。あたかも吹毛(すいもう)の剣をつくるのに、生鉄を炉に投じ、その含む不純物を取り除いて純度百パーセントの鋼鉄にし、さらに大槌小槌で打って鍛えて、強靱な素材を作り出すように、純粋な人間性を開眼せしめるのである。
 師家は入室する修行者に公案を与えて修行させる。妙心寺のご開山さまは雲水に対して、「本有円成仏(ほんぬえんじょうぶつ)なんとしてか迷倒(めいとう)の衆生となる−本来完成した仏であるというのになぜ迷っているのか」 と問いかけて公案とされたと伝えられている。
仏とは純化された人間の代名詞であることを確認し、禅の宗旨を体得するために、公案を縁とするのである。
公案は「悟り」という屋上に登るハシゴであり、手段でもある。もちろん登りつめれば降りて来なくてはならない。「上は菩提を求め、下は衆生を化す」である。
 公案。それはまったく常識を超えた難問ともいうべきものである。たとえば「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)を聞いてこい」などというのがある。両掌を拍ってこそ聞かれるのが声であり、隻手(片手)では常識では声にならない。
 しかし、天地もはり裂けるほどの隻手の一声を、古人は聞いている。修行者の心が純化されたときに自得できる一声ある。この一声が聞かれたときを「見性(けんしょう)」といい、隻手音声の一則を見たともいう。「見」の一字は禅僧にとって大きな意義をもっている。
 初関が透れば、つぎつぎと公案のハシゴを際限なく登る。雲水たちは「五十三次馬の屁の数」などと軽妙に表現しているが、どうしてどうして、馬の屁どころではない難透難解(なんとうなんげ…難しく透過し難い)である。
 屁で思い出すのは、相国寺の独山老師であったか、ある婦人の公案をいただきたいという希望に応えて、「三三九度の盃の真っ最中に、花嫁さんがブゥーッと出したら、居ならぶ皆さんに、なんと納得のいくご挨拶をするか」 という現成公案(げんじょうこうあん…ありのままの世界を問題として課すこと)を示されたという。